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【振り返ることで気が付くこと】

PUNK合宿GIG Vol.7/大合宿のライブ開催の断念をしてから1ヵ月が過ぎた。

本来ならば3日後の5/23には一里野高原の大自然のなか音楽好きの仲間たちが集まりパンクロックを楽しんでいたはずだった。

いまだ悔しさが癒えない自分の横で、まさか生きている間にこんなことになるなんて。と今年80歳になる父親がつぶやく。

たった50年しか生きていない自分が今このコロナの状況に戸惑うのも無理もない。

幼少期ではあるけど戦争や福井の大震災を経験した父親が言うほどなのだから。

 

自分にとって人生の中心といえるバンド活動において、今ライブが出来ないことは限りある時間が減っていくのが目に見えるような感覚にさえなる。

くしくも同年代のバンドの知人と年齢的にあと何回ライブができるだろうか、と話したばかりだった。

音楽、バンドの活動はライブ以外にも曲作り・レコーディングなどできることたくさんある。

今の時代インターネット・オンラインを利用しての活動もあるだろう。

だけど今のこの技術をもってしても削がれてしまうライブで生まれる音楽を通しての人と人の繋がりや空気感の穴埋めには今だ十分ではない。

ただこの状況の中、もしインターネットがなかったら、と想像すると恐ろしくなる。インターネットがあったから良かったと考えるべきだろう。

どんな状況であっても当たり前などというものはなく不便で満足が出来ない今の状況でさえもいつか、

あの時はまだ良かったと思うようなことになるのかもしれない。

常に、無くなってしまったことや不便になったことを思えば不満しか感じられなくなるけど、出来ることや与えてもらえていることの中に

わずかでもある可能性に目を向ければ前向きな気持ちが生まれるのではないかと思う。

 

便利になった現代に嫉妬するかのように不便な昔の方が趣があった、というような昔話は若い人たちに面倒がられることが

目に浮かぶからそんな話は内々でするべきことだろうけど、不便だったけど楽しかった自分の当時をここで振り返りながら

少し思い出してみることにした。

 

福井という田舎で生まれ育った自分が音楽を聴きバンドを始めた中学~高校生の80年代頃は都会と比べると情報量も少なく、

知りうる範囲では地元には好みのロックを体感するライブハウスもなくて、都会と比べれば、音楽を聴いたりライブを観たり、

バンドをやったりするには十分と言えるような環境ではなかったのではないかと思う。

ただその時代をその場所で生きていた田舎の少年はそんなことは知らなかった。

都会がどんなに便利で情報に溢れたところなのか、10年後の未来がどんなふうに便利な世の中になっているかを知らなかったのだから。

 

ロックを聴き始めたのは小学6年生の終わりごろ。すでに音楽を聴いていた兄の影響と、当時中学に進学するとラジカセを買ってもらえるという

周辺に風習のようなものがあって(笑)、レコードプレーヤーつきのラジカセを買ってもらったことで周りの友人達よりカッコいい音楽を

聴きたくなったことがきっかけだったと思う。

ただ学校の教室で友達と、電気屋さんからもらってきたラジカセのカタログを持ち寄って見るのが楽しみで、自分はその中から

パイオニアのラジカセがカッコよくてそれを親に頼んだのに、付き合いのある近所のナショナルの電気屋さんで買わないとダメ、

といわれて無条件でナショナルのラジカセになって残念だったことは今でも覚えている。

でも結果そのラジカセもレコードプレーヤーも優れものでものすごく重宝したし、ラジカセをもし買ってもらうことができなかったらと

考えれば当然ながら贅沢な話だ。

いろいろロックを聴き始めたその頃の一番の印象はIRON MAIDEN。80年代のメタルブームもあってロックの導入はヘヴィーメタルだった。

 

ラジカセを買ってもらう風習の次は中学に入ると音楽好きはバンドを始めるために今度はギターを買ってもらう風習があった(笑)

幼なじみで今もバンドを一緒にやっているマスイはお兄さんがフォークギターをやっていたからいち早くギターを弾いていて

中学入学当時からギターがうまかった。自分はまだギターがなくて焦っていた。

なぜなら友達同士でバンドを組むとき先にギターを買った者があこがれのギターのパートをゲットできるからだ。

残念ながら一緒にバンドを組もうと言っていた友人二人が先にエレキギターを手に入れ、自分はその座から脱落しヴォーカルになった。

ギターの腕はあったもののフォークギターしかなかったマスイも残念ながら脱落した(笑)

そしてマスイは友人に借りることが出来てベースになった。

だけど自分がギターになれなかった理由とは違い、彼がベースを受けてくれることになったのはなんでもこなせる音楽センスが

あったことが大きな理由で、ただギターがないから脱落になった自分とは全く違うことはここに正直に補足しておく(笑)。

その後父が、質屋で中古のギターを買ってきてくれたが残念ながら時すでに遅し、、、そのうえ買ってきてくれたのはフォークギターだった(笑)

マスイと自分は歩いて5分もかからない近所にすんでいたからフォークギターを持ち寄って遊んだ。二人でフォークギターで弾いていたのは

Simon and Garfunkel の The sound of silence、ではなくて IRON MAIDEN の Prowlerだった(笑)

 

自分にとって小学生の頃から高校まで生活の中心はずっと続けていた野球だった。だから中学のバンド活動といっても文化祭のためだけのもので、

その文化祭のための2曲をマスイの家の工場にドラムセットやアンプを持ち込んで繰り返し練習していた。

たったの2曲だけど少しづつうまく演奏できるようになっていくことが本当に楽しかった。
他のいくつかのバンドはIRON MAIDEN, WASP, KISS, ALCATRAZZ,,,自分たちは JUDAS PRISTそしてインディーズグラムポップパンクTHE BABYSITTERS。
そのころ知識も技術もないけどコピーだけでなくオリジナルを作ってみたいと思ってあのフォークギターを使い曲を作ってみていた。

高校生の頃に作った曲などのほとんどは忘れてしまったけど、不思議なことにその中学生の時に初めて作ったその曲だけはなんとなくまだ覚えている。

その中学の時のバンド名はBLOODY NOSE(鼻血)でそのオリジナル曲のタイトルはBLOODY NOSEのテーマ。
歌詞はほとんど覚えていないけど、サビはBLOODY NOSE! BLOODY NOSE! Non Stop BLOODY NOSE! (笑)

思春期の”鼻血が止らない”と自分のバンド”BLOODY NOSEは止まらないぜ!”を掛けていた(笑)

今思えば歌詞は英語でTHE BABYSITTERSに影響を受けていた曲調は、今思えばその後10年以上経ってから意識したポップパンクのようだった。

文化祭のライブは他のバンドと比べると上手とは言えなかったに違いないが自分にとっては満足のいく忘れられない経験になった。

高校は小さなころからの夢の甲子園を目指し野球の強豪校に進学し野球漬けの毎日になった。

それでも空いた時間はギターを弾いていたし高校でも文化祭にはバンドをやる気でいた。

入学当時にすぐ意気投合した野球部の友達とバンドをやろうという話をしていた。

その頃には自分は貯めたお年玉を使いエレキギターを手に入れていたからようやくバンドでギターを出来る可能性がでてきた。

その友人がヴォーカルで、共通の好きなバンドHANOI ROCKSをやろうということになっていた。

そのころ聞いていた音楽は聴き始めから幅が広がっていてヘヴィーメタル以外にグラムロック、パンク、そしてその当時強烈なインパクトで

あらわれたスラッシュメタル。

もちろん厳しい運動部員だったこともあるけどその頃もライブを観に行くといったことは全く意識が無かった。

知らなかっただけかもしれないがロックを観たり体感できるライブハウスがその当時もまだなかったのではないかと思う。

 

野球部だった自分は常に丸坊主だった。きっと多くの丸坊主運動部員の人はマイバリカンをもっていて自宅での散髪が多いのではないかと思う。

ある時家でテレビを見ながら母親に散髪をしてもらっていて目に入ったのは同じ丸坊主で、テレビに似つかわしくないような激しい動きと

シンプルで一度聴いたら忘れられないようなキャッチーで哀愁もあるメロディーのパンクロック。それまで聴いてきたり、見てきたものとは異質だった。 

格好をつけようとするものをあざ笑うようで皮肉を感じさせるほどに、「格好をつけないカッコよさ」を醸し出していた。

海外のロック・パンクに引けを取らないような、日本人でも、いや、日本人だからこそできるオリジナリティーのあるパンクロックを見せつけられた。

その時までの音楽は”聴くもの”で、バンドを演るといっても”楽しんで海外のバンドをコピーするもの”から自分にとってのバンドとは一気に

”自分の曲を演る”ものに変わった。突如として自分の目の前に現れたブルーハーツは散髪中のその一曲で考え方を変えさせるぐらいのパワーがあった。

同じ時代の音楽・バンド好きに与えた影響は好意的であってもなくても日本人のバンドのやり方に与えた影響は本当に大きかったのではないだろうか。

何かが起きた時にそれに対してどう感じ、どう解釈し、自分自身にどう生かすか。または何も感じないか。捉え方は人それぞれだと思う。

自分の中で、なんとなく日本人が海外のロックに憧れていても真似るだけではその上どころか並ぶことすらできないと思っていたけど、

日本人しかできないオリジナリティーを持つことで対等になれる、生意気だけどそんなようなような気がした。

サウンドや歌詞といった音楽性はもちろんけど、オリジナリティー/個性、が大切なんだということがストレートにが伝わってきた。

自分にとってのその衝撃の意味をそう解釈した。自分で欠点だと思ってることもそれは個性なんだから大丈夫と言ってくれた気もして、

それは後の音楽活動はもちろん当時命がけだった野球にも生かしたし、いろいろな場面場面で常に大切にしている。
 

次の日に一緒にHANOI ROCKSをやろうと言っていたヴォーカルの友人にブルーハーツのことを話すと洋楽派の彼は全く興味をもたず、

なにもすることなく解散になった(笑) それまでかなり頑なに洋楽オンリーだった自分も聴く音楽と演る音楽の差という感覚が不思議だった。

そして授業中の教科書やノートの落書きが野球の戦略から詩(歌詞)に変わった。
甲子園を目指す強豪校にいながらパンクの魅力に取りつかれた自分はあろうことか最後の甲子園県予選の1か月ぐらい前の大切な球場での練習の時、

私服の着替えを隠し持っていき練習終了後に公園でかくれて着替えて、そのまま自転車で福井市文化会館に向かいブルーハーツのライブを観た。

それまでどんなライブもコンサートも行ったことがなかった自分にとって生でライブを体験したのはそれが初めてだった。

ものすごく興奮したし感動した。まるで甲子園で野球をやっているようなふわふわした夢の中にいるような感覚だった。

その後野球の神様からの神判がどう下ったかは想像にお任せする(笑)

高校3年の夏、野球が全て終わると、すぐにバンドの練習を始め高校の文化祭で初めてステージで念願のギターを弾いた。

そのあといつも行っていた楽器屋にあったレンタルスペースでのライブ、卒業式後の音楽室での卒業ライブを企画した。
その2つのライブの時にはオリジナル曲を1曲だけやっていた。

 

たまたまその高校時代のバンドメンバーは全員、進学等で東京に出ることになり東京でバンド活動をすることになった。上京は1989年だった。

野球で大学に進学した自分は体育会の厳しい寮生活だったため最初のほうは外出もし難く、たまのスタジオや宿泊許可が出た時にはベースが住んでいた

下宿先に行っては曲作りをしていた。

高校生までの地元福井時代にライブハウス経験がなくどうやったらライブが出来るのかすら分からなかったけど、そのベースの下宿先で曲を作り、

夢を語り、歩いて20分ほどかかるコンビニまで行ってデモテープのインデックスや歌詞カードをコピーしたり、間違いがあったらまた往復したり。。。

どうしたら何が出来るか、というよりただただ出来ることを楽しんだ。そしてその頃、東京で観ていた人気番組イカ天のようなアマチュアバンドの

テレビ番組の福井版のようなものが始まったことや福井のライブハウスのことなどの地元福井の話を耳にするようになっていた。

あるときいつも行っていたコンビニの顔見知りになった金髪のバイトさんに声をかけられた。「バンドやってるんですか?」            

きっと格好を見てバンドやってそうと思われたに違いない。バンドをやっていることを話すと、その人はバンドをやるために沖縄から何も持たずに

上京してきたことを話してくれた。「デモあったら聴かせてよ」って言われてその頃には曲は溜まっていて簡単なデモはできていたから聴いてもらった。

すると「今度新宿の某ライブハウスにデモテープ持っていくけど一緒にどう?」って誘ってくれた。後日まだ知り合ったばかりの人と新宿駅で待ち合わせて

デモテープを初めてライブハウスに持っていった。残念ながら自分のところにもその人のところにもライブハウスから連絡はなくダメだったようだった。

その後その人がいたコンビニはなくなってその人とはそれっきりになった。。。デモテープを持っていった新宿のライブハウスの帰りに喫茶店に寄って2人で

バナナジュースを飲みながら夢の話をしたこと、コンビニの夏限定のスムージーをサービスでふたが閉じれないぐらい山盛りに入れてくれたこと。。。

本当に懐かしい。その人が今もまだどこかでたとえどんなに小さなところだとしてもステージに立っていてくれたら嬉しい。

 

ライブハウスにデモテープを持っていくことを学んだ自分は1人でライブハウスにデモテープを持っていくことにした。

そのころ高円寺によくいたこともあって東高円寺のライブハウスに電話をしアポをとって行ってみた。その場でデモテープを聴いてくれて

「うまく録れてるね、どうやって録ったの?」と言ってくれて出させてもらえることになった。ただそこはもともとパンク系のライブハウスでは

ないらしくしばらくするとパンク系のライブはできなくなると言われた。それでも東京に出て初めてライブが出来ること、何より東京で音楽を

認めてもらえたような気がしてすごく嬉しかった。

結局そこでは2度やらせてもらって、その後はブッキングをやっていろいろなライブハウスで企画をしている業者?を紹介してもらってそこを通して

月1ペースぐらいでライブをした。

その間当時まだやっていた原宿のホコ天にデモテープを撒きに行ったり、新宿のレコード屋さんに行って初めて納品書というものを書いてデモテープを

置いてもらったり、、、大学卒業後は家業を継ぐために帰郷する予定だったから東京にいる間に出来るだけのことはやりたくて一生懸命やっていた、

ただそのことは一つも苦になっていたわけではなくとても充実していたし楽しかった。それらはその後の自分にとって本当にいい経験になった。

ライブはいつもガラガラでチケットノルマを払い続け、それでもいつも来てくれるファンが1人出来た時みんなで大喜びして笑いあったライブの帰りの

渋谷の歩道橋の光景を忘れることはない。

 

その学生時代のバンドはいわゆるビートパンク。ただそのころ演る音楽として聴いていたビートパンクと好んで聴いていた海外のパンクとの

差が大きくなっていた。新宿や高円寺のレコード屋に通ってどんどんそれまで福井では買いたくても買えていなかったバンドのCDを見つけたり、

新しいバンドの発見が本当に楽しくてお金さえあれば買っていた。

そしてその頃7 SECONDS, DAG NASTY, HUSKER DU, DESCENDSNTS~ALL, NOFX, SCREECHING WEASEL, CRIMPSHRINE, SNUFF.LEATHERFACE,,,,,など

次々と自分にとって新しいバンドを知ることになる。どれも衝撃的だった。

その中でNOFXやSNUFFの高速の2ビートとメロディーを組み合わせたサウンドには驚かされた。

それまでは、自分が知りうる高速の2ビートは基本的にスラッシュ、ハードコアなど激しさ、凶暴さを強調するためものだった。

そのスラッシュメタルやハードコア特有の高速のスピードで哀愁のあるメロディーを際立たせたパンクが一気に突き刺さってきた。

その後メロディのあるパンクとハードコアのスピードを組みあわせたメロディックハードコアという音楽がどんどん広がっていくことを

目の当たりにして体感できた時代にいることが出来たことは本当にラッキーだった。

それまでなかった音楽が生まれ広がって行くとこに興奮したし自分ももちろん演る側として強く意識をした。そのラッキーな時代を体感できたせいか、

自分にとって特別で画期的だったその新しい音楽は大げさだけど神聖なものでスピードへのこだわりは今も変わらない。

ただ当時は、スピードや展開のアイデア等に影響を受けて自分のバンドに取り入れても言語を含めやってきた音楽自体を大きく変えることは考えなかった。

当時よく高円寺のロックTシャツ屋に行って当時の自分にとって結構な値段だったけどNOFX, ALL, DSCENDENTS, LEATHERFACEなどのTシャツを買って

ライブで着てはいたが。そういえば当時のドラムが2ビートを叩いたことがなくがうまく叩けなかったけどもっと速くもっと速くとよく無理を言ったなぁ(笑)

 

それまでバイト嫌いの大学生ということで経済的なこともあり、あまりライブを観に行っていなかったけど東京にいる間に出来るだけライブを観ておこうと、

インターネットがない時代だったから雑誌ぴあやレコード屋さんに貼ってあるフライヤーから情報を得てライブハウスにライブを観に行くようにした。

その頃に観たライブはRAMONES, BUZZCOCKS, NOFX, MEANIES, LEMONHEADS,TOY DOLLS, LEATHERFACE, ALL, SNUFF,,,,そういった来日パンクバンドを

見に行っていた。そのときに知った国内のバンドが来日バンドのサポートで出ていたGODS GUTS, SLIME FISHER, Hi-STANDARD,英語で速いパンクを

やっていた。1992、3年ごろだっただろうか。そこには中高生時代にに感じていた日本のバンドに対する良くない感情・偏見は全く感じなく、カッコよかった。

そしてライブハウスで刺激を受けどんどんのめり込んでいった。と同時に都会と地方の情報や状況の差を感じずにはいられなかった。
でも、当然自分がやっていた音楽に負い目を感じることは全くなかったし、またそれまでの自分のアンテナの張り方を棚に上げるつもりも全くない。

そういえば恵比寿でのライブ終了後の見たところ同年代のように見えたHi-STANDARDのメンバーに「カッコよかったよ」って当時のうちのバンドの

ヴォーカルが自分もそれなりにやっているバンドマンとして声を掛けていた。その時は自分も一緒にいて何も思ってなかったけど、今考えるとぞっとする(笑)

 

大学時代のバンドは解散というわけではなかったけど、自分とドラムは大学を卒業後地元福井に戻った。

当時作っていたデモテープはスタジオにあったカセットデッキでの一発録りで、音を被せて録音する方法など知らなかったが、その後MTRのことを知り、

離れ離れでも東京組と福井組がお互いにMTRを買えば遠距離でも録音は出来ると考え4trのMTRを買った。そのMTRは自分のバンド人生の相棒となって

いくことはその時は想像もしていなかった。

正月など全員が福井にそろった時にライブもやった。だけどただだんだん疎遠になり自然と活動は終わった。

最後にできた2曲をMTRで録ったのがそのバンドの活動としては最後になった。その時には自分の提案で歌詞は英語にした。その曲は後にYOUTUBEに

アップした。高校から大学時代にやっていたTHE SCRAWLというバンドだ。

 

そのバンドの活動がフェイドアウトのようになくなるのと重なるように、使うこともなくなりそうだったMTRを使ってひとりで曲を作りためていた。

メンバーは決まっていなかったからドラムの打ち込みを含め全パート1人で作っていた。それが今も続けているSTUPID PLOTS。

それまでの経験でバンドの構想はできていた。自分の中では演る音楽と聴く音楽の隔たりをなくすのが本当ではないかと考えるようになっていて、

STUPID PLOTSでは英詩で自分が一番”聴きたい音楽”をやろうと決めた。

海外のバンドはさらにいろいろ聴いていたけど国内のバンドに関しては情報も少なかったせいもあり全国にはどんなバンドがいるかを知ることは

出来ていなかったけど、自分のバンドは海外も含め他にはないオリジナリティーがあることを意識をしていた。メロディーはポップでサウンドはシンプル、

曲は短く、粗いパンクサウンドにはこだわった。そしてもちろん高速であること。いくら曲が短くてもきちんと1曲として聴けることは意識しながら

徹底的に削りまくって、10分テープに7曲を詰め込んだデモテープを作った。まずは高校の頃から行っていた地元のスタジオ・楽器屋さんに置いてもらった。

最初のライブは一緒に福井に戻ったドラムとベースには自分の弟を誘って福井のライブハウスでやった。

その後ドラムが仕事で時間がないなどからライブが出来ない状態になった頃、中学の自分にとって初めてのバンドで一緒にやった幼なじみのマスイと

偶然福井で再会した。その頃には数種類のデモテープを東京、大阪、静岡等のレコード屋さんに置いてもらったり、パンク雑誌DOLLのミキシングルームという

お便りコーナーでそこそこ数を売っていてインターネット・メールがない時代だったからデモテープを聴いてくれたたくさんの人から感想やライブの誘いの

手紙を各地からもらっていた。

中学時代にはベースをやっていたマスイに、会わなくなってからこれまで自分がやってきた音楽活動の話をして、ドラムを探している話をして、

何でも出来てしまう彼にドラムやってくれないか?と話したところ受けてくれた。離れ離れになっていた高校時代マスイも他校で甲子園を目指し

野球をやりながらバンドもやっていたということだった。パートは中学の時の流れでベースだったようだった。

その後、自分がギター&ヴォーカル、弟がベース、マスイがドラムという形でSTUPID PLOTSが福井を拠点にスタートした。

当時弟とマスイは大阪に住んでいたけど全員福井人で運営は自分がすべて福井でやっていたから福井のバンドとして。

自分と音楽の関りはこのように始まって今もなお続けている。

こうして振り返って考えると常に他の何かと比較をしていることに気付かされる。地方と都会の差や国内と世界の差、過去と現在の差、そして自分と他人。

ただどの比較もそのどちらが良くてどちらが悪いといううことではないはずだ。その感じ方や考え方は人それぞれだから。

隣の芝生が青く見えしまう人は常にどんな立場であっても満足はできず他をうらやむだろう。

それでも自分が置かれている現状や持っているものが他より恵まれていることを知ったり、想像したりすれば安心したり満足できたりする。

他人は他人、自分は自分とはいっても、知らず知らずのうちに自分自身の中にある満足度を計る物差しの目盛りを見ずに他者との比較で確認しているのだと思う。

ある時同年代のバンドマンと話している時興味深いことを言ってくれた。同世代のビッグになたバンドの話が出た時「向こうが、自由に楽しくやってる

こっちのことを羨ましく思ってるんじゃないかな」。最高だなぁって思ったし本当にその考え方に共感した。そういう考え方ができれば怖いものなんて

ないなぁと思った。ビッグになった人を普通にリスペクトしながら穏やかにそう話してくれたその人は自然にそう思っている感じが本当に素晴らしかった。

自分で言うのもおかしいがどちらかというと自分もその彼のように、あまり比較にまどわされたり他をうらやむことが少ない方だと思っている。

いや、もしかするとそれは常に自分にそう言い聞かせているのかもしれないし、彼もそうかもしれない。そしてそれで構わないんだと思う。

20代の頃、福井という田舎でSTUPID PLOTSというバンドとROADSIDE RECORDSという自主レーベルをはじめた。

地方であることは欠点になるかもしれないが、武器にだってなるはずと、若い頃は確かに尖がった考えもあった。

でも実際そんなことはどうだっていい。地方ならではの特徴を都会の人にも地元の人にも知ってもらえて、みんなでただ楽しむことができたら

最高だし本当に嬉しいことだと思う。

そして40代も後半になってから福井&石川のメンバーで一里野という山奥でPUNK合宿GIGという企画をはじめた。

どちらにしても地方であること、オリジナリティーを意識してだ。

 

現在と過去を比べてしまうことはあっても、現在と未来との比較は出来ない。

先に何が起こるか、どう変化していくか分からないからだ。だから未来に嫉妬することは無い。

今回振り返った小学校の時にラジカセを買ってもらった時も、中学生の時にフォークギターを買ってもらって初めて曲作りをした時も、

高校生のとき隠れてライブを観に行った時も、大学のとき新宿で待ち合わせて初めてライブハウスにデモテープを持っていった時も、

福井にもどってSTUPID PLOTSを始めた時も、インターネットはもちろん携帯電話もなかった。

でも知らない未来をうらやむこともなければそのときの現状を不満に感じたこともない。

どこにいてもどんな状況であっても自分次第でいくらでも未来の可能性は広がり続けるはずだ。

ただ、今は前向きに考えることが困難な状況に立たされている。

周りを変えようとするよりまず自分自身、未来を変えようとするより今踏み出そうとしている1歩。

そう意識をしながらあまり大げさなことを考えずに、”今”を大切にしたいと思っている。

ライブが出来ない今、とても厳しかった高校時代の野球の監督の言葉を思い出す。

些細な言葉だったかもしれないけど、いろいろな時によく思い出し気持ちを保つことがある。

ひざを痛めた時に「下半身をつかった練習ができない時は上半身を鍛えればいい」

1年を通して数日しかない休みの前に「休むことも練習のうちだ」

いろいろなことを制限しないといけない今だからできたこの時間にこうして過去を振り返えりいろいろなことを思い出し、

また、いろいろなことに気が付くことできたこともきっと何か意味があるのだと思う。

​TEXT :山口ショウゴ ROADSIDE RECORDS/ STUPID PLOTS   2020. 5/20

 

 

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