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THE STEADYSのライブを初めて観たのはSTUPID PLOTSがライブ活動を再始動した最初の東京でのライブ2014年のMATSURIの時だった。地元に戻って知り合いのバンドにTHE STEADYSむちゃくちゃカッコよかった!いつか地元に呼びたいなぁって話したことを覚えている。その後THE STEADYSの企画に呼んでもらったり何度も一緒にライブをさせてもらった。そして2019年にはPUNK合宿GIG VOL.3で地元に来てもらうことも出来た。2018年にはTHE STEADYSはアメリカツアーを敢行。そのあと自身のレーベルを立ち上げてのCDリリース、アメリカのkids on fireを招致してのジャパンツアーと順調に進むかと思った矢先にコロナに阻まれた。それでも常に前を見て進んでいるTHE STEADYSのフロントマンのミカミ君にいろいろなことを話してもらった。

( TEXT : Shogo Yamaguchi (ROADSIDE RECORDS . STUPID PLOTS )  2021 )

Q::Shogo Yamaguchi ( ROADSIDE RECORDS / STUPID PLOTS )

A::Futoshi Mikami (  THE STEADYS / 左廻 )

(Interview date: October  2021 )

Q1. 自己紹介と今やっているバンドについて教えて下さい。

 A. 今回はこのような機会を頂きましてありがとうございます。THE STEADYSでボーカル/ギター、左廻でギターを担当してますミカミフトシです。兄の名前は洋平、二人合わせて太平洋。よろしくお願いします。

Q2. コロナの状況も長引いてきました。この間バンド活動やプライベートどう考えて過ごしてきましたか?

 A. バンド活動についてですが、去年2020年3月のライブ以降はしばらく全く先の見えない状況が続き、練習すらも入れない状況でした。そんな中、9月のPOP PUNK COVER NIGHTに誘っていただき、よしscreeching weaselで出演しよう!と決めて、メンバーでやりたい曲を出し合ったりして、気持ちを切り替えて活動を再開できたことは大きかったです。年が明けてからはピーナッズを招いて早稲田zone-bで2マン企画を打ったり、依然苦しい状況だけどとにかく少しずつでもバンドを動かしていきたいという気持ちを持てるようになりました。そうこうしているうちに、たくさんの曲が自分の中で形になってきたので、これをバンドで作り上げていくのが今の状況で最善なのではと皆で決めて、現在は3枚目のフルアルバムに向けてスタジオワーク中心の活動をしています。プライベートでは、とにかく釣りで精神を保っていたといっても過言ではないですね 笑 早朝港に原付で向かう途中だったり、海に浮かんでる合間にバンドのこと、コロナのこと、会えてない友達のことを考えたり、はたまた何も考えなかったりする時間がとにかく必要不可欠となってました。あとは奥さんとジョジョのアニメシリーズや相席食堂見てゲラゲラ笑ったりして、こんな状況の中でも良い時間を過ごせています。

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Q3. 来年には新しい音源をリリースという発表をしていますね。とても楽しみにしています!どういった想い、経緯でリリースに向かいましたか?

 A. ありがとうございます。リリースを発表というと大げさになりまして、アルバムを作れるだけの曲数をバンドで一通り合わせてボイスメモに記録したとこまでこれたので単純に嬉しかったのと、自分の尻を叩くという意味で見切り発車でツイートしてしまいました。一応来年1月末からレコーディング開始予定でスタジオとエンジニアをおさえてありますので、あとは有言不実行にならないよう頑張るのみです 笑 構想自体は実は2016年に2枚目のフルアルバムを出した直後からありまして、詳しい内容は割愛しますが次のフルアルバムに向けてのコンセプトやアイデア、歌詞等を隙をみては会社のパソコンにこそこそ打ちためていたりしました。ただ肝心の曲は2019年にミニアルバムを挟んだのもあり、去年kids on fire、sid~との3way splitを出して間もなくコロナ禍に入った段階ではストックゼロの状態でした。そこからライブ活動もほぼ出来ないなか時間だけはあったので、これを機に家の棚を眺めて目についた音源を全部引っ張り出して聞き直してみたり、奥さんの集めてる漫画を全部読みふけったり、気になった映画やアニメをひたすら見ながらギターをつま弾いたりしたのが良い刺激になり、2020年中に一気に曲が湧いて出た形になりました。この期間にただ何も出来ずに終わりたくないっていう気持ちも原動力になったと思います。

Q4. 2018年のアメリカツアーについてどういった経緯でツアーが決まりましたか?思い出エピソードなど教えて下さい。

 A. 一番最初のきっかけは、2017年に地元の友達のMASA君が横須賀かぼちゃ屋にNAVELを呼んだ企画に自分等も出させてもらったのですが、たまたま遊びに来ててライブを見てくれたアメリカの方がCDを買ってくれて、母国に帰ってすぐにCDの感想を連絡してくれたのですが、その彼がbloated kat recordsというレーベルをやってるservoだったというところからでした。servoはやりとりをしているなかでアメリカツアーを提案してくれて、こんな機会一生に一度きりかもしれないと思い是非行きたい旨を伝えました。が、このあとが波乱の幕開けでして、当初servoが車でツアーを廻ってくれる予定だったのが、家庭の事情でどうしても帯同することが出来なくなったと直前に連絡があり、知らせを受けたときはさすがに途方に暮れました。その後servoからまた連絡があり、ツアーを同行してくれるバンドを募ったら1組だけ見つかったので、彼らを頼ってほしい!とのことでした。そこで紹介されたのがsidであり、彼の率いるsid broderius & the emergency exitというバンドでした。やりとりのほぼ全てを唯一海外生活の経験のあるベースのカオリコ姉さんに託し、とてつもない不安の中辿り着いたサンフランシスコ空港の待ち合わせ場所に彼らのワゴン車が現れたときは泣きそうになりました。ここから先の彼らとの旅は本当に一生忘れることのない最高の思い出です。会えなかったけど、こんな機会をくれて懸命に繋いでくれたservoにも本当に感謝してます。当時リアルタイムでツアーの様子をツイッターに投稿してたので超もの好きな方は遡って探してみてください。

【USA Tour Last Day 】

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Q5. アメリカのバンドKids On Fireとの国内ツアー直前にコロナの状況が悪くなり始め残念ながら来日が出来なくなってしまいましたね。本当に辛い想いをしたと思います。その時はどんな状況でどんな気持ちでしたか?

 A. これはもう堪えましたね。1年近く薬の効かない腹痛に苛まれるくらいには堪えました、、笑 きっかけはアメリカツアーで本当にお世話になったsidが、kids on fireというバンドにベースで加入したから日本でツアーを組んでくれないかと連絡をくれたことで、そんなのやるに決まってるでしょ!と、あのアメリカでの旅の続きができることを心から楽しみにしていました。来日バンドのツアーを組むのはもちろん初めてで何もわからないところからのスタートでしたが、自分等の手の届く範囲の好きなバンドやシーンと繋がってもらいたいという思いで、メンバーや仲の良い友達で協力しながら手作りで準備を始めていきました。宿、会場、移動手段、ブッキング、フライヤー、彼らのアルバムの日本盤、3 way split等々の準備をその都度情報を共有しながら手分けして進めて行く過程で、仕事帰りそのまま満喫にこもって音源の和訳作業をしたり、各バンドへの出演依頼、詳細連絡などでとても忙しい日々でしたが、その分段々と形になるツアーにわくわくしていました。そんな中でコロナウィルスの流行が徐々に騒がれ始めて、ツアー日程が近づくにつれてシビアな状況になっていきました。sidには小まめに日本の状況を伝えていましたが彼らは本当にツアーを楽しみにしてくれていて、飛行機が飛ぶ限り絶対に行きたいとのことだったので、最後まで諦めずに準備を進めていきました。ですが、その気持ちとは裏腹に状況は悪くなる一方で、様々な事情でやむを得なくキャンセルとなるバンドが相次ぎ、そしてついにツアーも直前というところでアメリカからの飛行機の欠航の連絡があり、今回の来日は叶わなくなってしまいました。自分がバンドやってきた中で一番頑張った催しでもあり、またどうしようもなかったとはいえ関わってくれた、巻き込んだ人達に申し訳ない気持ちもあり本当に辛かったです。ですが、それでもやるよと予定通りライブに出てくれたバンド、快くライブをさせてくれた各会場の方々、横須賀編では急遽出演募集したのにも関わらず助けてくれたたくさんの方々、残念ながら出演出来なかったけど、本当に最後まで真剣に考えてくれたりその後も心配してくれたバンドの皆さんの優しさに救われた面もありました。sidも落ち着いたらすぐにでも日本に行きたいと連絡をくれているので、まだ先の読めない状況ではありますがいつかリベンジツアー出来たらと考えてます。

【KIDS ON FIRE JAPAN TOUR Flyer】

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【3Way Split CD 】

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【KIDS ON FIRE CD Japan edition】

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Q6. 初めてバンドを組んだ時からのバンド遍歴を教えて下さい。

 A. 高校1年の時に、文化祭に出るべくgoing steadyのコピーバンドを組んだのが最初です。名前は東京少MEN。他のメンバーが考えたとはいえ、今改めて文字にすると顔から火が出るほど恥ずかしいバンド名ですね。これを安孫子さんが見てないことを祈ります、、笑(ちなみにその年一番センスのあったバンド名は才ジーオズボーンでした)その時自分はピンボーカルだったのですが、その後自分でギターを弾いてlinkみたいな3ピースバンドを組みたいと思い始め、高校2年の夏休みに地元の池子プールの監視員のバイトをして、白い肌と引き換えにレスポ―ルスタンダードを手にしました。現在使ってるレスポールジュニアに貼ってある殆ど文字の消え去ったステッカーは、その時のバイトの最終日にもらった「IKEGO FOOL」ステッカーです。程なくして東京少MENのベースとドラムとの3人でオリジナル曲を作り始めました。バンド名は先輩等からショウメンと略されて呼ばれていたのをそのまま使ってthe showmenとしました。ただでさえ酷い命名なのに、しばらくして帰国子女であるrasputinのクラウチさんに「英語表記だと露出狂って捉え方もあるよ」って言われたときは絶望しました。メンバーチェンジしつつ、2003年~2006年まで活動して横須賀かぼちゃ屋でのラストライブでアルバムを無料配布して解散しました。その後、the monmonsで途中ベースを弾いたりしていたヒデヤスに誘われ、ヒデヤスの地元の後輩のカズ、ミクシーのメンバー募集でやってきたウラピー(short story/60'whales/dear punks)とともにthe feebiesというバンドを結成しました。ライブは今は無きギグアンティック等で数本やったのみ、demo CDを1枚出したのち自分はクビになりバンドを去りました 笑 この暇になったタイミングで高校の先輩でもある左廻のテツロウさんと毎日のように遊ぶ時期があり、その流れで左廻に加入することになりました。それまでのメンバーが超絶かっこいいギターを弾く人達ばっかだったプレッシャーと、単純に当時横須賀ハードコア番長だった左廻を客として見るのが好きだったので、最初はメンバーになるのが正直すごく嫌でした 笑 が、色々ありながらもなんだかんだ13年くらい在籍してます。左廻ならではのギターを弾く楽しみもあるので、またやれるようになったらやりたいです。

【THE SHOWMEN (w/ THE MONMONS】

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【THE FEEBIES】

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【左廻】

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話は戻り、左廻で活動しながらもやはり自分でバンド立ち上げたい気持ちと、the feebies時代に作った曲をせっかくだから形にして出したいなーという気持ちから、とりあえず音源製作だけでも手伝ってくれそうな友達に声をかけたところ、ベースにthe midnight tv programsのリョーメン、ギターにthe commitmentsのチサトさん、ドラムに左廻のパインさんを引き入れることに成功し、デモCDを作りました。そして、デモを作ったんだからちょっと一回だけでもライブやってみまへん?と口車に乗せて2009年6月にまんまと初ライブを果たし、the steadysとして始動しました。バンド名にはブレずに一本筋通してやろうという意味が込められてます。2010年終わり頃になるとリョウメンがthe midnight tv programsの活動で忙しくなり脱退となったので、携帯に登録されている友達を「あ」行から眺めていると「か」でガーナに失踪したという噂を聞いていたlucky'sのベースであるカオリコ姉さんの名前を発見し、ダメ元で電話してみたら無事に帰国を果たしていたので、ちょっと一緒にやりまへん?と誘ったところ快諾してくれてメンバーとなりました。その後は2019年までにフルアルバムとミニアルバムを2枚ずつリリースし、色々なところで演奏することが出来ました。その中でパインさんが家庭を持ち、住まいも静岡ということで中々活動し辛くなってきたのもあり、途中lucky'sのタニちゃんに叩いてもらってアメリカツアー行ったりしつつ、現在はスーパーナガイ君(kritical hit/life is water band/the sensations)がメンバーに加わり、活動を続けることが出来ています。

【THE STEADYS 2009~】

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【THE STEADYS 2011~】

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【THE STEADYS 2019~】

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Q7. バンドを始めた頃夢や目標はありましたか?そして現在の夢や目標はありますか?

A. バンドは自分にとって人生の切り取り作業みたいなものなので、始めた頃も現在もやり続けること、丁寧に記録を残し続けることが目標で夢です。

Q8. 人生においての重要な5曲(またはバンド、音源単位でも)を教えて下さい。その曲についての思い出やエピソードも教えて下さい。

A. 思い出は絞り切れないので割愛しますが、今もバンドをやれている原動力という視点で挙げました。

the steadysを続けてるのはきっと地元にこの3バンドがいたからです。

①link

②the frisbee

③caramelman

左廻のメンバーやってるのは地元にこの2バンドがいたのがきっと大きいよなーということで、

④echo

⑤real shit

Q9. これまでに観たライブで特に印象深いライブを3つ挙げて下さい。思い出やエピソードも教えて下さい。

 A. 印象深いといえばやはり人生で初めてライブハウスに行ったときの事を思い出します。中学3年生の時に、2つ上の先輩バンド(洋平兄の同級生・the mad capsule marketsのコピーバンド)が北久里浜リバーブサウンドでライブをするとのことで、ドキドキしながら向かいました。中に入ると学校の先輩達で溢れかえっていたので、すっかり萎縮した自分は同じく遊びに来ていた洋平の後ろに隠れるようなポジションで始まるのを待っていました。そしていざライブがスタートし、あまりの音のデカさに感動したのもつかの間、すぐ前で見ていた普段は大人しいはずの洋平が突然ヘッドバンキングを始め、その勢いがどんどん加速した結果、反り返ってきた洋平の後頭部が我が鼻に直撃し、大量の鼻血を出しながらその場に倒れこむという鮮烈ライブハウスデビューを果たしたのでした。あの日のことは忘れません。あと2つパッと思い浮かんだのは、とにかくかっこ良かった横須賀かぼちゃ屋で見たderangements、サマーソニック04で飛び込みでライブしたthe libertinesです。

Q10. これまでやってきた自身のライブで印象深いライブをいくつか教えて下さい。思い出やエピソードも教えて下さい。

 A. 突如お客さんのチークダンスが巻き起こったアメリカツアー2日目ベーカースフィールドでのライブ、終演直後に両足をつって断末魔を上げ出演者一同に爆笑されたthe showmenの解散ライブ、胃腸炎によりライブの途中でトイレに駆け込んだPANIC QT'Sジャパンツアー京都編など色々ありますが、真っ先に景色が浮かんでくるのはやはり2017年のMATSURIです。当日ギターのチサトさんが来られなくなるというハプニングで3人でライブをすることになり、用意してたセットリストも全部変えてなかばヤケクソ状態で挑んだライブでした。が、蓋を開けたらたくさんの友達やお客さんが集まってくれて、最終的に上裸の男達に囲まれながら大合唱という最低で最高の景色を見ることが出来ました。今でもこの日の写真や映像を見ると、あーこの頃はサカイ君がこっちにいたんだなーとか、サカイ君の裸きったねぇなーとか、ニヤニヤが止まらなくなるし、またここで皆に会いたいなと強く思います。

(2017年のMATSURIの模様はこちら➡ HERE

Q11. 読んでくれた皆さんに一言メッセージをよろしくお願いします。告知もありましたら。

 A. 長文読んでくれてありがとうございます。はっきりとした告知は今のところありませんが、来年からライブも再開できると思うのでその時はまた構ってください。いやー、元気に会いたいもんですね。

ミカミ氏 Twitter ➡ HERE
THE STEADYS SOUNDCLOUD : https://soundcloud.com/the_steadys

PUNK合宿GIG Vol.3 ➡ HERE


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【KIDS ON FIRE 】

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