NOBODYS . THE DUDOOS . ZA NAOKIDZ . KAMAMBELS . PP&THE HITORIKAPIZ . MUSCLE BEACH PARTY
フタリカピズ . TOY-POOH-DOLLS . SUSPENDED GIRLS . POMPAN of THE SHIPBOX . 七ツ星録音★Asia
NAOKIDZ★と初めて会ったのはお互いのバンドともまだデモテープ時代の90年代。その頃はCDやレコードで世に出ている国内のメロディック・ポップパンクバンドがまだそれほど多くなく、デモテープが出ているバンドをチェックするような時代だった。新しいバンドが次々と出てくるそんな中でもNOBODYSのオリジナリティは確立されていてその個性は際立っていた。それからTHE DUDOOSをはじめ数多くのバンドやソロで止まることなく活動しているNAOKIDZ★は、彼にしかできない一聴して彼の物と分かる世界観をブレることなく飄々と築き上げ、そしてその活動は今もまだ続いている。お互いにずっと音楽を続け2019年にはTOY-POOH-DOLLSとして自分達の企画PUNK合宿GIG Vol.4に来てくれた。再び一緒にライブができたことは何年経とうとも切れない音楽での繋がりを感じさせてくれた。ポップパンクを愛しポップパンクに愛されたポップパンカーNAOKIDZ★にこれまでのことなどいろいろと話してもらった。
( TEXT : Shogo Yamaguchi (ROADSIDE RECORDS . STUPID PLOTS ) 2022 )
Q : Shogo Yamaguchi ( ROADSIDE RECORDS / STUPID PLOTS )
A : NAOKIDZ★ (NOBODYS . THE DUDOOS . ZA NAOKIDZ . KAMAMBELS . PP&THE HITORIKAPIZ .
MUSCLE BEACH PARTY フタリカピズ . TOY-POOH-DOLLS . SUSPENDED GIRLS . POMPAN of THE SHIPBOX. 七ツ星録音★Asia )
(Interview date: August / October 2022 )
Q1. 自己紹介と今やっている音楽活動(バンド・レーベル)について教えて下さい。
A. NAOKIDZ★と申します。1993年から東京(首都圏)を中心にバンド活動を行っていました。
現在は広島在住でぼちぼち活動しています。POP PUNK一筋約30年!=今やおっさんです。
これまで正式にやってきているバンドは、
①NOBODYS ②THE DUDOOS
③ZA NAOKIDZ ④KAMAMBELS ⑤PP&THE HITORIKAPIZ
⑥MUSCLE BEACH PARTY
⑦フタリカピズ ⑧TOY-POOH-DOLLS ⑨SUSPENDED GIRLS ⑩POMPAN of THE SHIPBOX
因みに、①②は本格的に活動したバンド。
③~⑤はソロ活動。
⑥はDiSGUSTEENS下地君のソロ的バンドにドラムで参加。
⑦~⑩は故郷広島市に戻ってからのバンド活動。
担当としては BASS . VO . KEY が得意分野!ソロ活動は全ての楽器演奏と録音作業を一人でやっとります。
そして、自主レーベルとして 「七ツ星録音★Asia」を超不規則に運営しとります。
Q2. コロナの状況も長引いてきました。この間バンド(レーベル)活動やプライベートどのように過ごしてきましたか?
A. そーですねー。音楽活動はズバリ!何もしてませんでした~(笑)
プライベートではウォーキングにはまりました。
おっさんになり新陳代謝も落ち健康の為とコロナで自宅待機が多かったので、たくさん歩いて気持ちをスッキリさせてました。
歩きながら音楽聞いたり、曲を頭でまとめたり、何か考えたり、景色や街の歴史を楽しんでおりました。
あっ、あとは観客OKの時期は徹底的に高校野球観戦に行ってました。
特に有望メンバーの多かった広島新庄、広陵、広商の選手を実の親御さんの様に見守っていました笑。
特に試合前の守備練習はキビキビしてて好きなんです!
Q3. NOBODYSの結成や初期の頃の活動や思い出、エピソードなど教えて下さい。
A. 1993年、東京で大学生だった頃、全く勉強はしておりませんでした。。。
その中で、暇つぶしにとお茶の水でベースを買って、家でRANCIDを耳コピして楽しんでおりました。
そのうちに、実際バンドで表現したいな!と思いDOLLのメン募に募集したところ、いわき市(福島県)から出てきた2名から連絡がありました。話を聞くと、高校のころから「NOBODYS」というバンドをやっていたとのこと。
全く何のこだわりも無かったので、「バンド名もそのままでいいじゃん!曲も作れるの?それも宜しく」てな感じで始まりました。
初ライブの前にデモテープを作成して、それを名刺代わりとして対バンしたバンドに渡したり交換したりしてました。
また購入してくれたお客さんからも「実はこんなBANDやってまして、、、」とライブに誘われることがあったりしてだんだんとライブが増えていきました。そうやっていくうちに知り合いも増えてきました。
新宿のDISK HEAVENで働いたことも大きかったです。スタッフにはTEENAGE BONEHEADSの岡本君やなおチャン(平川氏/SKIPPY REC)がいました。道路を挟んだレコ屋にはオニギリ社長(WATERSLIDE RECORDS)やBLOW-POP-Tが学生の合間にバイトをしており情報交換していました。
俺がかっこいい!と思ったバンドのデモをお店で販売させてもらったり(例:COOLER KING McQUEEN ...etc)、更には普通にお客さんとして各バンドの人が来ていたのでかなり活動の幅も広がっていったと思います。STUPID PLOTS 山口君と会えたのも正にここでした!!
更に、後のGOING STEADY/BASSのアビちゃん(安孫子氏)が山形の高校生時代に死ぬほど通販してくれていて、「ありがたいお客さんだ!!!」と名前を憶えていました。後々、彼に会ったとき、まさかあの通販の!!と本人に確認したことを憶えています。
一番大きかったのは、当時泣く子も黙る!SNUFFY SMILE にデモを送ったところ、DOLLの JAPANESE MELODICK BAND 特集で栄森さんに紹介して頂いたことでした。
そこから、周りの目が一気に変わり違ってきました。やっぱり、SNUFFYや雑誌の影響力って凄いな~~~~!と身をもって感じました。
また、HUSKING BEE(以降ハスキン)のイッソンが高校の同級生だったので、ハスキンがやり始めた頃からライブを見に行っていました。他にも、BACK DROP BOMB/VO のマサも広島出身で知り合いだったので彼の前進バンドもよく見に行きました。そこでもDEMOテープを企画の人や出演バンドに渡していました。
そんな中、当時いち早く自主企画を毎月行っていた「SPROCKET WHEEL」(以降スプロケ)のBASS.VOシモ君(同い年)に知り合えたのはその後の活動において大きかったです。
めちゃ緊張してDEMO渡したら、「DOLL見たよ!ASTA KASK 俺も好きなんだよ。しかし、大チャン畳屋の親方みたいだねー」とほんとに気さくに話してくれて、すぐに彼らの企画「LIVE CLEAN STAY YOUNG」に呼んでくれました。人見知りの俺にとっては恩人ですね(笑)。
しかも、そこで「LIFE BALL」と対バン!!こんな感じでどんどん、広がって行きました。
また、スプロケは自主企画だけでなく自主制作でCDを販売し始め、NOBODYSも彼らのやり方を大いに真似ました。
シモ君や栄森さんにCDの作り方や業者を教えてもらいNOBODYSの自主レーベルを立ち上げリリースすることができました。
今まであまりこのことを話す機会はありませんでしたが、基本的に俺の好みとしても、スプロケの活動を大いにモチーフに活動していました。
そして、活動が首都圏から東名阪と広がって行き東北や北陸(福井)に単独で呼んでいただき地方ツアーということもできるようになり全国的な活動が徐々にできるようになっていった時代でした。
【NOBODYS / Promotion Photo】
【NOBODYS / 1st album】
Q4. まだインターネットやメールが使えない早い時期にNOBODYSはアメリカツアーを敢行していますね!その経緯やツアーのエピソード思い出など教えて下さい。
A. ツアーというツアーではないのでおこがましいですが、、、。
当時(‘94~)に海外留学していたBUTTER DOGのメンバー(現WATER SLIDE RECのオニギリ社長、CHEERSのBLOW-POP-T)と知り合い、又新宿のレコード屋DISKHEAVENで働いていた時代にTEENAGEBONEHEADSの岡本君やSKIPPY RECのなおチャン(平川氏)がいて、海外に精通している皆の話を聞くと、出来なくないなーと思い始め当時フィラデルフィアに留学していたオニギリ社長に「とりあえずアメリカ行くわ」という感じでBUTTER DOGとアメリカでライブしました。
【w/ BUTTER DOG】
Q5. また90年代にアメリカでの音源リリースもしていますね!経緯やエピソード思い出なども教えて下さい。
A. NOBODYSはシカゴのV.M.L REC。THE DUDOOSは2000年代にSOUND POLLUTIONからリリースしました。
NOBODYSの時は個人的にシカゴのMELODICK,POP PUNKが好きで、その中、VINDICTIVESがやってるレーベル「V.M.L REC」に手紙と音源を送ったのがきっかけです。
正直言うと、まあV.M.Lなら日本のしがないバンドでも相手にしてくれるのでは?と思って(爆)
実際リリースといってもNOBODYSの国内のアルバムに向こうでレーベルシールとバンド名を張り替えてV.M.L名義でリリースしました。
因みにアメリカでのバンドロゴは「NOBODIES」。アメリカの「NOBODYS」と区別する為でした。俺的には「NOBODYS JAPAN」で交渉したのですがだめでした。
因みに2ndアルバムは正式にV.M.Lからのリリースだったのですが、その前にNOBODYSが活動休止になり実現はしませんでした。
忘れられない思い出としては、この時もBUTTER DOGとシカゴにライブしに行ったことです(’97年位)。JOEY VINDEICTIVEやBEN WEASELやシカゴPOPPUNKのメンツでピザ&ビール飲んだのは最高の思い出です。(因みにこの時「STUPID PLOTS」のTシャツ着てました(笑))
【w/ Ben Weasel / Screeching Weasel】
【w/ Joey Vindictive/ Vindictives】
THE DUDOOSはあの激ハードコアレーベルのSOUND POLLUTION(アメリカ)。
国内アルバム2枚+αのリリースとサンプラーCDに参加。
個人的にFASTなハードコアが好きでどちらかと言うとレコードを結構買っていました。自分とは無縁だと思っていたので正直びっくりと嬉しさが交差してました。
きっかけは、オーナーのKENから音源の問い合わせが来ことでした。KENは自分の好きな音楽であればどんなジャンルでもリリースする!という自由なスタイルと感覚の持ち主で、村社会で井の中の蛙的な日本人気質が恥ずかしくなりました。
SOUND POLLUTION史上初!のPOP PUNK BANDのリリースだった事は自分の音楽人生の自慢です!
お陰で、海外からの問い合わせも多くなり、2005年にはアメリカツアー。最終日はNYのCBGB!(満員御礼!といってもDUDOOSの人気のおかげでは無い(涙))。それでも、CD買って見にきてくれたアメリカ人の方もいたので改めてSOUND POLLUTIONからリリース出来て良かったと実感しました。
【THE DUDOOS / SOUND POLLUTION 】
Q6. 90年代のシーンでの活動はどんな感じでしたか?また当時のシーンをどのように感じていましたか?
A. 当時を振り返ると特に下記の4つに分けられると感じます(東京など首都圏の活動において)。
①自分達が90S PUNKのやり始めだったので年上のBANDが少なくやりやすかったということがあったと思います。
MELODICK . POP PUNK . SKA . ミクスチャーなどなど80S後半から海外で新しいスタイルのバンドが出てきて、日本でもぼちぼちそんなバンドが出てきていました。
最初はそんなのPUNKじゃないというような人もいましたが、個人的には日本人的な縦社会とか井の中の蛙的な考え方が大嫌いだったので、自由に活動できた印象です。それは大きかったです。
でも、SUNFFYの年上のバンドの方たちもとても優しく、いいものはいい!と認めてくれていたので(ハイスタもそんなスタイルでした)、本当に良かったです。
特にお世話になったのは、NOBODYSとは別にヘルプでBASSをやらせてもらっていた超HEAVYバンド「SOUL SONICK FORCE」の経験は密かにスキル面を含めても大きかったです。
そのドラムだったのが後の「PEALOUT」の高橋君でした。「こんな凄いドラム叩く人がいるのか!」と必死でBASSを弾いていたことは大きな経験でした。
また、PEALOUTをスタートしたころ企画にNOBODYSを誘って頂き先輩方とも交流させていただきました。
そんな時代だったからこそ、音楽をここまで続けられてきたと強く思います。
②最初はジャンル関係なくごちゃまぜで対バンしていていました。
90Sスタイルのバンド自体少なかったので、本当にノンジャンルで対バンしていました。
MELODICK,POP PUNK, SKA, Oi, バンダナスラッシュ、ミクスチャーと対バンしました。
俺のことを知っていただいている皆さんにとっては意外かもしれませんが、上記のジャンル、実は今でもすべて大好きです!
そして上記③あたりから日本のバンドを聞き始めた方にとっては「えっ!?そんなバンドともやってたの!」的な感じでした。
③そして、徐々に細かいジャンルや仲間での活動に分かれていきました。
だんだんとバンドが増えていく中で、各音楽のカテゴリーで集まって企画をすることが増えていったように思います。
個人的にはノンジャンル希望でしたが、NOBODYSはMELODICK/POP PUNK企画にさそわれる事が断然多かったです。
そのうちに、バンドが企画をするのではなく、個人での企画が多くなっていきました。その代表格が、元々お客さんでどんなライブにも毎回来ていて人懐こい性格から年上にも可愛がられていた千葉ちゃんの「SET YOU FREE」(以後セッチュー)です。
彼の初企画は、当時「POP PUNK」の企画が少なかったことと、ナッジムオールのライブが無かったということがきっかけで、そこにNOBODYSが1番目として参加しました。
また、大阪ではPOP BALL RECORDS が立ち上がり、直球で超良質なPOP PUNK BANDがたくさん出てきました。
今でいうとWIMPY’Sの前進バンドやPIGGIESなんかもセッチューの2回目に出ていました。
また、女子の企画者もたくさん出てきたり、様々な企画が東京では毎日行われていたと思います。
SKIPPY REC も独自なルートからマニアックな作品をリリースしたりTHE QUEERS初来日などを実現させてくれPOP PUNK FANにとってはあのバンドがまじかでみれた!!!と興奮しました。
④そしてメジャー路線とUNDERGROUND路線に分かれていきました。
俺の身近なところでいうと、元々自主企画をしていたのが、上記でも紹介したスプロケとSHERBETでした。(実はSHERBETの片山さんにも色々とオムニバスに誘ってもらったりしてお世話になっていました。)
スプロケ系譜のBANDは活動をどんどんUNDERGROUNDの方向へ。
SHERBETやHUSKING BEE はPIZZA OF DEATHからリリースしてどんどん集客していきメジャー的な活動へと変わっていきました。このころになると、考え方の違いからいがみ合うようなこともあちこちでありました。
そんな中で、俺的にはスプロケ路線が性に合っていたので地道にぼちぼち活動していました。
一方でハスキンのピアノ・キーボード担当でツアーメンバーをしていた時期がありメジャー路線も経験させてもらいました。最高8千人の前で!「えー!」て感じでした(笑)
そんな両方の路線のバンドと関わることもでき、最終的にどんなバンドとでもやる!という感じでTHE DUDOOS時代を含め、あまり偏らず中間的な活動をしていきました。
SUSPENDED GIRLSで下地君(LIFE BALL, DiSGUSTEEN)と一緒にバンドをやるようになって当時の昔話をすることがあります。
下地君も同じような感覚を持っていて(まあLIFEBALLの人気は当時ハイスタ以上という感覚ですが)、こうやって下地君とも懐かしく楽しく語ることができるのも地道に自由にのほほんと音楽をやってこれたからだと思います。
これらのことは、あくまでも自分の活動の中で感じたことで、当時バンドをやっていた一人一人にそれぞれのストーリーがあると思います。
ここ数年、何十年ぶりに90Sの方たちとも会えたり、当時はあまり話しをしてなくても、今だからこそ話せる!といった経験もできて嬉しい限りです。
【NOBODYS / Live】
Q7. 広島に戻ってからSUSPENDEDGIRLS, TOY-POOH-DOLLSの活動やリリースがありましたが、そのバンドをはじめたきっかけや、広島での音楽活動についての想いや感じることを教えて下さい。
A. ちょうど、東京で適当な感じでソロ活動をしていた時に、広島に「DUMB RECORDS」(※以下ダムレコ)というPOP PUNKのレコードを売っているカフェが出来たことを知りました。帰省した際に行ってみると、オーナーの那須君がいてPOP PUNKの話で大盛り上がり。その那須君は地元で「早朝ピストンズ」のドラムでもありました。そして帰省する度、ダムレコに行くうちに、「いつかPOP PUNKのバンドを一緒にやろうや!」となりました。そして、「ベースはやっぱり下地君(DiSGUSTEENS)がえーじゃろー」てな感じでした。これがSUSPENDED GIRLSの原点です。
そこから7~8年経って、東京で初ライブ。その時はまだ東京にいたので、帰省した時は那須君とスタジオ、東京に戻って下地君とスタジオ練習。あとはメールで笑。
広島戻ってからは、新曲が出来たら那須君とスタジオに入って曲を仕上げていきました。下地君とはメールで。
まあ、那須君も下地君もセンスと実力を兼ね備えている超人なので、ライブもレコーディングも直前練習しかしておりませんでした。ベテランならではの感じですかね(笑)
アルバムはほとんど3人の練習無しで録音しましたけど、実力者(自分も笑)でやると出来るもんだな―!と。
そしてサスペンのアルバムは自分でもめちゃお気に入りでよくウォーキングの時に聞きます。またコロナ明けたらたまにはやりたいです!
【DUMB RECORDS】
【SUSPENDED GILS】
そしてTOY-POOH-DOLLS (通称トイプー)。広島に帰って来て知り合いがいない中で、ある日ダムレコーズで飲んでいる時に、女子(若くはない)が何人かいて皆「バンドやりたい」話で盛り上がりました。俺の頭の中で「いつか女子バンドやってみたい」というのがあったので、「何かやろうか?」みたいな感じでスタートしました。
ダムの女将ナオさんは前々から親しくしていてBASSができる、前ちょんは歌、たままたま一緒にいたリセも歌やってみたい。
そういえば「かよちゃんがドラムできる、誘ったらやるってゆーけー」という具合に短時間でポンポンとメンバーが決まりました。
自慢ですが!(エヘン笑)。曲なら何曲でもできるので直ぐに数曲作ってみんなでワイワイいいながらスタジオに入りました。とはいえ、男子とやるのと女子とバンドやるのでは大違いだなーと悩みながらも、解散した今、振り返るとめちゃくちゃ楽しかったなーと思ってます。
そしてトイプーを通じて「初ライブのドキドキ感」「初めての県外」など皆が緊張したり各地で楽しんだりしている中に入ることが出来て、自分ではとっくに忘れてしまっていた「NOBODYSやDUDOOSの楽しかった初期衝動」をこの年で体験できたことは生涯の宝物です。
今でも人見知りな俺でも、遠慮なく接することができる飲み仲間ですね(笑)(特に「おごるよ!」と言った時は皆めちゃくちゃ飲むんよ。。)
もうひとつ、広島ではフタリカピズというユニットをやってます。これはPP&THE HITORIKAPIZの曲をアコギとベース&ピアノで。
ダムのインストアやダムで知り合った相方のリョウチンの企画に出たりしています。
全く違うジャンルの方々ともライブ出来て刺激になります!
こうやって、有難いことに広島でも活動が出来、そして早朝ピストンズをはじめ色々なPUNK・HCバンドの皆とも知り合いになれました。東京時代の色んな輪の中にたくさんのバンドがいる状態とは違い、広島は「一つの仲間」と言う感じでジャンル関係なく皆が地元だけでも十分活動できるところが「独立国家 広島(笑)」のいい所だなーと感じています。
【TOY-POOH-DOLLS】
【TOY-POOH-DOLLS】
Q8. 初めてバンドを組んだのはいつごろでどんなバンドでしたか?(文化祭等)またバンド遍歴も教えて下さい。
A. 中学3年生の受験が終わった位に同級生に誘われてバンドをやり始めました。
元々小さなころからピアノをやっていたので、最初はキーボードでした(ほとんど出番なし 笑)。
そのまま高校でも中学の同級生のメンバーを中心に練習やライブをしました。その名も「Di-SKY」(ダサすぎるネーミング。因みにこのバンド名はTHE DUDOOSの歌詞にも出てきます)。
最初のころはブルーハーツやモッズのコピーをして文化祭や地元高校生企画のライブに出ていました。
しかしこの頃、ベースのヤンキーの奴が「ワシ、ボーカルやりたい」となって、仕方なく俺がベースになりました。
これがベースをやりはじめたきっかけです。
高校の最後の方は何曲か皆でオリジナルを作ってやりました。で、そのまま解散状態。
次にやり始めるのは21歳の時のNOBODYSです。
Q9. バンドを始めた頃の夢や目標はありましたか? 現在の夢や目標はありますか?(バンド、音楽活動、またプライベートでも)
A. 全く無かったです。バンドやること自体、自分にとっては縁遠いことだと思っていましたし、曲作りなんて出来るわけないと、、、。自分には向いてないと。
現在も特に無いです。ここまで長くバンドをやれて来たので、マイペースにやれるときにできれば十分です。
といいつつ、実は自分の頭の中だけも含め、まだ発表してない曲が30曲以上あります。そしてこれからも曲はできるだろうと思うので一生かかっても全部音源にしていきたいです。
近い将来、NOBODYS~各ソロバンド~サスペン、トイプーまでの音源(170曲位分)はひとまとめにして記念にBOXセットにしたいですねー。
他、これからも秋春夏の高校野球は広島県予選から中国大会まで全部見ていきたいですね笑。広島東洋カープも見守りますが(笑)
Q10. 人生においての重要な5曲(またはバンド、音源単位でも)を教えて下さい。その曲についての思い出やエピソードも教えて下さい。
A. バンドでいきます。
① KLAMYDIA (FIN)
なにより曲が心底好きです。ヘルシンキにも行きました!
② DE LYCKLIGA KOMPISARNA (SWE)
俺の中での3大天才の1人、MARTの才能と演歌メロディーが心に染みます。
この辺聞くとテンションが上がって曲が浮かび安いです(笑)
③ THE QUEERS (USA)
LOOKOUT RECは我々の憧れです。MTXにVINDICTIVES。更にSCREECHING WEASELはめちゃくちゃ好きなんですが、30代になってやっとその良さに気付きました(遅い)。その中で、QUEERSのメロディーとライブスタイルはかなり影響受けました。初来日の際、前座でNOBODYS出られたのも最高の思い出です。
④ DESCENDENTS/ALL (USA)
18~19歳のころ、BAD RELIGIONと並んで MELODICK/POP PUNKを聞く切っ掛けとなったバンドです。切ないメロディーとキチガイの様な屈折した曲。奥深いです。
⑤ SHOCK TREATMENT(SPA)
欧州POP PUNKにはまった切っ掛けです。実はこんなバンドがやりたい!と始めたのがDUDOOSです。結果全然違いましたが(笑)。当時、DOLLでDUDOOSのメンバー募集した時もそう書きました。
バンドをやるにあたってテンション上がるものをあげました。こうやって考えると5つに絞るのも難しいですね。
やっぱり欧州母国語MELODICK/POP PUNKは外せません。
Q11. これまでに観たライブで特に印象深いライブを3つ挙げて下さい。思い出やエピソードも教えて下さい。
A.
① SICK OF IT ALLの初来日LIVE@新宿ANTINOCK
大学で東京に出て、バンドはやってないころです。よく色々なライブに行きました。
その中で今でもダントツです。かっこよすぎて震えました。
② MORIYASU NITE@横浜24
1990年代初頭、NOBODYSもこのイベントには1回出させてもらいました。
ハイスタから俺らみたいな地下に潜る者まで、特に同期のバンドが集まっていたイベントでした。
その中で、個人的にはLIFE BALLが凄かった。
当時はPUNKブーム間際でそんな状態に正直馴染めない自分がいたのも確かなのですが、この質問を通して考えると今となっては印象深かく思い出され、当時が懐かしくなりました。
③ DE LYCKLIGA KOMPISARNA初来日@下北沢TREE,名古屋ハックフィン
数年前(令和)のライブです。あの憧れのMARTを生で見れたことは一生の宝物です。しかも同時にNOBODYS,THE DUDOOSまで復活して出させて頂いて。ありがたや。40歳後半にしてとても楽しいそしてノスタルジックな時間を味わえました!
Q12. これまでやってきた自身のライブで印象深いライブをいくつか教えて下さい。思い出やエピソードも教えて下さい。
A.
① NOBODYの初ライブ@新宿ANTINOCK
バンドの知り合いもなく、ブッキングで出ました。めちゃくちゃ緊張しました。
突っ立ったままで、ど素人状態。思い出すだけで恥ずかしいですね。
しかしながら、当時はこの様な各ライブハウスのブッキングで同じようなMELODICK/POP PUNKのバンドとたくさん知り合い、後々は各バンドの企画に呼んだり呼ばれたりという風になり、ひとつのPUNKブームに繋がっていったんだと思います。ANTINOCKのブッキングでも元々知り合いだったスナオ(後のVIVISICK)もよく見に来てくれていましたし、DUCK MISSILE(当時高校生)もこのライブで一緒でした。
② NOBODYSとBUTTER DOGでの東海北陸レコ発ツアー
直ぐ思い出されたのがこのツアーです。仲の良い(今でも)バンドと一緒に回り、ほんと合宿みたいで楽しかったです。
岐阜の大垣では長良川沿いのトタン屋根のライブハウスで演奏したのですが空調もなくサウナ状態でした。
そして、多くのお客さんがきてくれて勘違いしそうなくらいめちゃ盛り上がりました。
そして、福井では言わずと知れた、STUPID PLOTSに企画してもらいました。
クラブカルメンの前で撮った集合写真は大切な歴史の1枚です。
【FUKUI CALMEN 1997】
【FUKUI CALMEN 1997】
③ THE DUDOOS 1STアルバムレコ発@新宿LOFT “SET YOU FREE”
DUDOOSを始めてアルバム作成はひとつの大きな目標でした。
そして大きく関わってくれた、GOING STEADYのアビちゃんと現カクバリズムのワタルが発足した「STIFFEEN REC」。
更にライブブッキングはセッチューに任せる。そんな中で、多くのお客さんに集まって頂き成功させることが出来ました。
自分自身のこれまでの集大成と自信になったライブです。
④ THE DUDOOS アメリカツアー@CBGBでのライブ
Q4でも少し触れました。相当盛り上がりました。本場アメリカを実感できました。
その中で、一言で言うと、「ライブマネジメントはこうすればいいんだ!」と気付かせてくれたライブです(2005年DUDOOS活動休止直前)。演奏だけでななく、会場のお客さんの気持ちをステージに向かせる為には、MCなど言葉も必要、目線やステージ上でのちょっとした身振り手振りも。
日本人とは違って、勝手に盛り上がってくれるアメリカ人は良いな、、とひがんでいた部分もあったのが払拭されました。
日本人は日本人なりの性質がありそこにフィットしていかないといけないんだと。
一方行ではなく双方向を意識したライブパフォーマンスの考え方が明確になりました。
⑤ THE DUDOOS(復活) 大合奏会@秋葉原一帯
前回このHPでもインタビューしていたFOUR TOMORROWの凄い企画です。
当時の若いBAND(俺からすると)がわんさか出ていて、1日中、秋葉原の色んなライブハウスを同時に席巻していました。
そこに、活動休止をしていたTHE DUDOOSを誘ってくれました。正直めちゃくちゃ嬉しかったです。
そして、意外にも(本音)、ものすごく盛り上がったんです。当分浸りました笑。忘れられない想い出です。
⑥ THE DUDOOS ワンマンライブ「全曲集」&「活動休止前最後」@GIG-ANTIC
2000年代に入り、ライブを重ねアルバムをリリースしていくうちに、もしかしたらワンマンできるのでは?という雰囲気になっていきました。それは年明け恒例のSET YOU FREE ツーマンシリーズや自主企画でゲスト呼んでのツーマンライブの感触が多きかったです。
GIG-ANTICで行った2つのワンマンライブ「全曲集」と「活動休止前最後」は全部自分たちで考えて企画してやっただけに思い出深いです。お陰様で共にソールドアウトでした!
「全曲集」はDUDOOSの持ち曲全て、全55曲を3部構成にしてやりました。合間もクイズ大会やDJ、トークショウを挟み、見に来てくれたお客さんがまるで「演劇」を見ている様な飽きない流れを作ろうというコンセプトでめちゃくちゃ練習しました。
この時はどうにか、声も動きも持ちました(汗)。当時は相当スタミナもあったんだなーと感じます(笑)。
一番楽しかったライブとして忘れられない良い思い出です。
【番外編】ZA NAOKIDZ@新宿JAM HIP CAT’S rec企画
自分にとってもう一つ深い関わりのヒップキャッツREC。
とにかくNOBODYSコンプリートのリリースからライブから色々出ました。
その中で、このリコーダー1本で演奏するソロもオムニバスに入れてくれました。
たかがリコーダーですが確かダイブが起きたんです。
それを見ていた下地君(DISGUSTEENS,サスペン,KILLERPASS)が笛でダイブとかすげーな、と誉めてくれた(貶した笑)ことを覚えてます。
トイプー企画でpiggiesを広島に呼んだライブや、サスペンのおっさん連中で広島大阪東京でやったライブも印象深いですし、
他にもソロ活動を手伝ってもらったライブなどあげれば切りが無いのですが、ひとまず、浮かんだものを幾つかご紹介しました。
【THE DUDOOS Live in USA】
【THE DUDOOS & JUST A FINE SLOPE】
Q13. 最後に読んでくれた皆さんにメッセージをよろしくお願いします。告知もありましたら!
A. 長々とおっさんの話をご覧くださり有り難うございました。
又、このような機会を頂き、自分の音楽人生を大いにフィードバックすることが出来ました。
同世代の方々とは同じ時代の事を少しでも共有できたら幸いです。
そして今は、自分達古株が偉そうにしゃしゃり出る時代ではありません。若い世代の人たちには、昔こんなバンドがいてこんな人がいて、こんな活動があったんだと知ってもらえれば十分です。
その中で、自分の想いとしては、日本のMELODICK/POP PUNK BAND がこれからもたくさん生まれてどんどん活動して欲しいなと願っております。その時はレジェンド枠(笑)でたまにライブに呼んでください(自爆!)
追伸 : 昨年からTwitterで自分の作品を一つずつ振り返るコーナーをやっているので、興味ある方はぜひ覗いてみて下さい!
実は2022年10月からトイプーの進化版いや退化版!?、POMPAN of THE SHIPBOXもスタートしました。こちらもよろしくお願いします!