内田 和弘 ( Waterslide Records )
カズさんに初めて会えたのは1997年、カズさんのバンドBUTTERDOGがツアーで福井にも来てくれた時だった。当時国内でいち早くショボポップパンクをやっていて、アメリカでも活動していたBUTTERDOGのライブは最高だったし、なにより本当に楽しくて強く心に残っている思い出だ。その後コンタクトをとったのはそれから15年ぐらいたった頃だった。90年代を共に駆け抜けた同世代がまた一人また一人と現場から減っていく中、カズさんはレーベルとしてその場に残り国内外、世代を超えてずっとアンダーグランドパンクシーンでの地道な活動を止めていなかった。Waterslide Recordsが90年代以降の国内のアンダーグランドパンクシーンに与えた影響はあまりにも大きくその存在があると無いでは状況は大きく異なるものになっただろう。普通では知り得なかった海外のバンドを知ることが出来てその音源を聴けているのは当たり前のことではない。また国内のバンドを海外の人に聴いてもらうことも同様だ。広く知られないまま消えていってしまったカッコいいバンドや、埋もれてしまっている最高なレコードやCD、小さくても熱いシーンが世界にはまだまだあるに違いない。それは誰かが伝え続けないと情報が途絶えて無かったことになっていってしまう。カズさんを見ていると「好きだから」だけではなくどこか「使命感」のようなものを秘めているように感じずにはいられない。90年代にアンダーグランドパンクシーンに魅了されそのままその魅力を伝える第一人者となったカズさんに当時のことなどいろいろと話してもらった。
( TEXT : Shogo Yamaguchi (ROADSIDE RECORDS . STUPID PLOTS ) 2024 )
Q : Shogo Yamaguchi ( ROADSIDE RECORDS / STUPID PLOTS )
A : KAZUHIRO UCHIDA (Waterslide Records )
(Interview date: March 20224)
Q1. 自己紹介とレーベルの紹介(他今やっている音楽活動)をお願いします。
A. 内田和弘 aka オニギリギリオです。Waterslide recordsを多分28年運営してます。
このレーベル名義でリリース、オンラインレコードショップで世界中から入荷したレコードを販売してます。
あと、友人たちとCHEERS! RADIOというラジオ番組をネットで毎月配信しています。
今はバンドをやってません。色々なバンドに加入したい旨を伝えてますが、扱いづらいからと断られてます(泣)。
過去にやったバンド順として、BUTTERDOG、UNDERACHIEVERS、BABY LITTLE TABLETS、高橋組などがあります。
Q2. 長かったコロナの状況もようやく落ち着いてきましたがコロナ禍の間はレーベル活動やプライベートどのように過ごしてきましたか?落ち着きが見えてきてからの活動はどんな感じですか?
A. コロナ禍の中で自分は何をしたら良いのか、何ができるのかということを模索したこともありましたが、通常通りにリリースをしたり、音源を入荷したり、ラジオも続けました。
なるべく普段通りに動くことで、自分の子供達の不安を少しでも取り除くことができるかも、また、リリース作品や通販を通じて、リモート勤務や行動制限のかかったストレス圧の日常に不安を感じている人に少しでも笑顔を与えることができるかも、と勝手に思い動いてました。
ラジオも一緒にやってる仲間たちが、コロナ禍だからこそ続けようと背中を後押ししてくれました。
個人的には父親の介護だけでなく、コロナ禍でそれまで超元気だった母親までも調子が悪くなり、音楽に夢中になることを継続していなかったら自分のメンタル持たなかったと思うので、結局は自分が救われたと思います。
ようやくコロナによる行動制限が解除されたことで、2023年11月に久々に海外からSONIC SURF CITYを招いてツアーを行なうことができました。
まだまだこれからって感じです!でも、2023年中盤以降の海外バンドのツアーラッシュ凄まじいですね。
コロナ禍で止まっていたものがコロナ前以上のスピードで進んでいるように感じます。
円安で海外のバンドが自腹ツアーでやりやすい状況なのかもしれません。
【SONIC SURF CITY JAPAN TOUR 2023】
Q3. アメリカで生活、バンド活動をしていたころのことを教えて下さい(経緯、エピソード、思い出など)
A. アメリカに行った理由は大学です。
某大学の付属高校に通っていたのですが、そのままエスカレーターに乗り続けることを拒否されまして、高3の時の担任に、海外の大学に挑戦してみたらという誘いに簡単にいいよ!と回答して、その担任が日本にあるアメリカの大学にまずは入学というプランを提案してくれてそこに乗っかったわけです。
大学では、これまで好きだったバンドの歌詞などから興味を持っていた人種差別問題や、社会が環境に与える影響などを深く学びたいと、専攻を社会学に決めました。
その専攻科目だと本校に行かないと取れない授業もあったことと、どうせなら人種の坩堝であるアメリカで学んで卒業したいと思って行かせてもらいました。
それが東海岸のペンシルバニア州のフィラデルフィアだったのが最高にラッキーでした。
とにかく、フィラデルフィアの音楽シーンは今でもですが当時から盛り上がってましたので。ちょうどGREEN DAYがブレイクした直後で、好きだったWESTON、PLOW UNITED、LIFETIMEなどが地元を盛り上げていた頃です。
向こうでの生活は、授業が終わると毎日のように街にあるレコード屋さんを回っていました。
いくつかのお店では仕入れたレコードをお店に出す前に見せてくれるような仲になったほどです。
こいつほんと暇だなと思われてたと思いますよ(笑)
週末は他の州のレコード屋さんを日本で言うところのタウンページとかで探して地図を頼りに行ってみたり。
アメリカではとにかく探していた欲しいレコードを掘りまくってました。
それと、あるレコ屋の店員さんとおもちゃコレクター同士ということで意気投合して、色々なフリーマーケットや競売会場にも連れて行ってもらったりもしてました。
この人にも車でしか行けないレコード屋さんに連れて行ってもらってました!
また、当時は大体のライブが$5で見ることができたので、名前を知っているバンドが出るライブにはジャンルを問わず足を運んでいました。
人の家でのライブを初めて体験した時は、これが噂に聞いてたやつだと感動しました。でも、近所の人に通報されてましたけどね(笑)。
とにかく、レコードとライブにお金を費やしていたので、食べることは二の次の生活でした。
学校ではそんな俺の生活に見かねた友人たちが食べきれなかったお昼ご飯を分けてくれていました!生き延びれたことにマジで感謝です。
アメリカに行って良かったことは、レコードが山ほど買えたことはもちろんですが、色々なバンドのライブを見に行ったことで現地で知り合いがたくさんできて、その知り合いの知り合いなどで今のリリース作品や入荷にも繋がってることが多いことです。
まさに、一期一会は大事だということを身に染みて学んでます。
悪いことといえば、フィラデルフィアといえば冬がとても寒いのですが、地下室に住んでいたのでさらに極寒だったのと、やっぱり治安が悪いことですね。
初めての家探しをしていた日に、パトカーに追われてた車がパトカーに向かって普通に発砲したのを目の前で見て、俺は驚いたんですけど、周りの人は気にしてなくて、あーほんとにアメリカにいるんだなと思いました(笑)それ、真昼間の街のオフィス街の出来事ですよ!
学校の敷地内でも殺人事件は起こりますし、自分も時には怖い思いもしたことはあります。生きて帰れたんで今となっては全て笑い話ですけども。
昨年、またその街に訪れたんですけど、治安良くなってるから驚くよと現地の知り合いに聞いてたんですけど、現在は貧富の差が広がっているため相変わらずめっちゃ治安悪かったです。
パルプンテ食らってる人に追っかけられて、と、言っても向こうは走ってこれないので危険ではないですが。あーそうそうこの感じと懐かしく思いました。そんな街です。
でも、住んでいると空気でここ危険だなというのを察する本能が芽生えます。人間すごいです。とにかく良くも悪くもそんな街で濃密な時間を過ごすことができたと思います。
Q4. BUTTERDOGのことについておしえてください(結成、音楽性、アメリカ・国内ので活動、思い出、エピソードなど)
A. 結成は、今もCHEERS! RADIOを一緒にやっているグングンと先ほど話したアメリカの日本校で出会ったことがきっかけですね。学校でHARD-ONSのTシャツを、その「HARD-ON」という意味を知らずに着ていたのがグングンです(笑)
一度、話したら、聴いてるものがほぼほぼ被っていて速攻で仲良くなり、授業の空き時間や帰り道とかにレコード屋に一緒に毎日のように行くようになりました。
クラブとかも行ったり、ライブももちろん一緒に行くようになって、同世代の知り合った人たちがバンドを結成してライブをやるようになってきてたので、俺らもバンドやろうって感じになって始めました。正確に覚えてませんが、93年か94年の頃ですね。
HI-STANDARDが1stミニアルバムを出したり、Snuffy Smileを始めた栄森さんがShakin' Streetをやっていた頃です。その周辺の動き方の影響がでかかったですね。
ギターは同じ高校の同級生でレコード仲間で、一緒にクラブとかライブに行ってたユウイチです。
1stシングルで叩いてくれてる最初のドラマーのクリキングは女性で、当時自分が働いていたレコ屋の近くのレゲエのレア盤を中心に扱ってるレコ屋にいた彼女にバンドをやろうと思うって話ししたら、私ドラム叩きたい!と立候補してくれて瞬殺で決まりました。
実はこの前にドラムがいたんですが、スタジオ1回でやめてもらったのでカウントしてません。本人は今でも自分が最初のメンバーと言ってますが(笑)
あっ全然話し変わりますが、別の近所のレコ屋にはSkippy recordsを立ち上げTEENAGE BONEHEADSをやってたナオミさんとNOBODYS、DUDOOS、SUSPENDED GIRLSその他諸々のNaokidzがいましたね。
【BUTTERDOG 最初のバンド写真】
ちなみに結成当初カバーしていたのはSCREECHING WEASEL、FACE TO FACE、GORILLA BISCUITSとかです。
なので、当初からどういう音を目指すというのはなくメンバーが好きなのをやってく感じでした。
でも、今思うとポップパンクとメロディックの中間のようなサウンドを狙っていたのかもしれません。オリジナル曲は俺しか作らなかったので、俺がその時好きだった感じが音源ごとに反映されてるかなと思います。
グングンは割となんでもウェルカムなので作曲において気を使うことはなかったですが、ギターのユウイチはメロコアやハードコアが好きだったので、必死に速い曲を書いたりもしてました(笑)
95年に1stシングルをレコーディングをする頃には、俺1人が先にアメリカの本校に行くことが決まっていたので、レコーディングをした後はメンバーとの遠距離活動になりました。日本では俺抜きで最初は3人で活動してくれていました。
俺はせこせこと新曲を作ってはMTRでデモを録音しては、メンバーに送っていましたね。
この年の冬に、クリキングも服飾の勉強をするためにニューヨークで生活を始めることになったので、メンバーみんながフィラデルフィアに集まってライブ2、3本やりました。クリキングはフィラデルフィアのライブを持ってバンドから卒業しました。
この時にNOBODYSもやって来て、一緒にライブやって、それ以降は企画とかも一緒にするようになりましたね。その流れで翌年の夏、NOBODYSと一緒に岐阜、福井、名古屋、東京と回って、その節は福井では山口さんにお世話になりました!このツアーの前からグングンの高校の友達のササキッズが加入してます。
そしてこの時に、2ndシングルのレコーディングをしましたね。
【BUTTERDOG Live in USA with クリキング】
【BUTTERDOG 2nd single 制作現場】
で、数ヶ月後にグングンも本校に来てからは、アルバム制作を目指して2人でMTRで新曲のデモを作ってました。
で、97年の夏に戻った時にアルバムのレコーディングをしました。
で、録り終わっていくつかのレーベルに送ったんですが、NOBODYSのアルバムをアメリカで流通する予定のVINDICTIVESのJoeyが当時運営していたV.M.L. Recordsがリリースしたいと連絡をくれ決まりました。決定した日の夜はグングンとパーティーしました。
で、その年の12月にシカゴでNOBODYSと一緒に来てライブをしてくれって言われ、うちのギターのユウイチがやってきて有名なFireside Bowlでライブをしました。SCREECHING WEASELの2ndアルバムのインサートでメンバーが飛び跳ねてる写真のとこです。そこでやれたというのは、うれしかったですね。
この時は、ササキッズが来れなかったのでNOBODYSのドラマーのグンジに叩いてもらいました!
それから、全員でフィラデルフィアに移動してライブもしたような記憶があります。
【BUTTERDOG Fireside Bowl Chicago】
【Chicago Fireside bowl Flyer 1997】
そうそう、シカゴで訪れたVINDICTIVESの家で、ふらっとやってきて自然にその場に参加してきた人がいたんですが、話していて、あれ?知ってる声だ、あれ?この刺青って?もしかしてBen?そうだよ。ってまさかの対面でした。
そうですSCREECHING WEASELのBenと知らずに一緒に飲んでいたんですよ。
最初からBenと気づいていたら緊張して会話できなかったかもしれません。
Joeyの家の3Fに当時Benは住んでいて、日本からバンドが来てることを聞いて会いに来てくれたそうです。
なぜなら彼の当時の彼女が日本人だったから(笑)
シカゴでのライブも予想していなかった盛り上がりで、さらにレーベルも決まったのでやる気もさらに出て来て、そのままアメリカでもちゃんと動こうと思って、俺がフェミニズムの授業で知り合った元海兵隊員でクラスティーズだった現地人の通称ヤノさん(本名はヤンノ)にサポートで入ってもらってライブをやってました。
ライブをやれるバーに飛び込みでカセット持って行ったり、ライブを企画してる人にライブやらせてって頼んでって感じでしたね。
でも、ライブのフライヤーには、向こうに住んでるのにfrom Japanって書かれて嘘ついてる感じで申し訳なかったですね。
ヤノさんはアメリカ人ですし(爆)あっヤノさんの家がConflict Houseという名のパンクスのシェアハウスで、地下室で練習できたのでスタジオ代も浮いてわっしょいな感じでした。
ちなみにこの家には後にKILL THE MAN WHO QUESTIONSに加入するMikey(ARMALITE)やAndrew(STUNTMEN、LIMP WRIST)、それからフィラデルフィアのDIYライブブッキング集団として現在かなり大規模になったR5 PRODUCTIONSのファウンダーだったSeanも当時住んでいましたよ。
良い感じにヤノさんとやってたんですけど、V.M.L. Recordsが突如閉鎖してしまって連絡も取れなくなって、リリースも流れちゃったんですよ。それで、ヤノさんとの活動も止まっちゃった感じでしたね。
アルバム用の曲はその後、4曲入りの3rdシングルとしてリリースしました。
で、その後、本来の予定だったアルバムはCDR100枚だけハンドメイドジャケで作りました。
もう、テンションガタ落ちでしたので(笑)
そうそう、後に当時のフィラデルフィアのバンドを紹介してるサイト(残念ながら今は閉鎖)ができて、BUTTERDOGはフィリーのバンドと紹介してくれていてうれしかったですね。
多分、そのサイト作ったのConflict Houseの誰かだと思うんですけど。地元のやつらが地元のバンドと認めてくれてたのはうれしかったです。
ヤノさんのメインでやってたバンド:Vile Horrendous
https://youtu.be/86G-4xK5Mb8?si=wckoUxdtsFoHEbfE
【BUTTERDOG Live with ヤノ氏】
【BUTTERDOG Live with ヤノ氏】
俺が卒業して日本に戻ってからもNOBODYSのナオキッズがサポートベースで加入してくれて、続けてはいたんですが、ナオキッズが結成したDUDOOSに途中からササキッズが加入し、グングンは資格を取るために卒業後もアメリカに残っていたので、次やろうみたいな感じであっさりと解散になりました。
いまだにみんな普通に仲良いのでコロナが起きる前には、一度再結成しようという動きもあったんですが、今では何もなかったことになってます!
BUTTERDOGのことインタビューされるの初めてなので、なんだか長い回答になっちゃってすみません!
【1st 7" EP / BUTTERDOG S/T 】
【2nd 7" EP / EPPERMINT RUN-de-BOO 】
【3rd 7" EP / IN VACATION 】
【1st album CD-R / I HATE BUTTERDOG 】
Q5. TAKAHASHI GUMIのことについておしえてください(結成、音楽性、活動、思い出、エピソードなど)。
A. TAKAHASHI GUMIは、Waterslideからアルバムをリリースすることになって、レコーディングに一緒に入っていて、コードを覚えてしまったのでギター2本の方がライブいいんじゃいかなと。
それで、酔った時の勢いでレコ発で俺がサイドギターやるよって言って実際やったらそのまま加入になってましたね(笑)自分が曲を書かないバンドで、方向性も自分で決めなくてよかったバンドなので、純粋に楽しめました!
泥酔するし、スタジオ行くの忘れたりとか、よくメンバーに怒られなかったと思います!
でも、今振り返ってみたら長女が産まれて1ヶ月後に秋田、山形にツアーに行ってました。よく奥さん怒りませんでしたね(爆)。
このバンドでは本当に色々なところでライブをやらせてもらえて楽しかったです。
色々な面白いエピソードあるんですけど、ここでは話せないので興味があればいつか会った時にでもお話しします。
【TAKAHASHI GUMI】
【TAKAHASHI GUMI】
Q6. 初めてバンドを組んだのはいつごろでどんなバンドでしたか?またバンド遍歴も教えて下さい。
A. 初めてバンドを組んだのは、15歳の時で地元の同級生とその友達とでした。
つまり俺以外他の高校のやつらです。当時はベースでした。でも、これはバンドというよりもプリミティブな活動でしたね。頻繁にスタジオに入るお金もないので近くの団地の地下駐車場に小さいアンプを持っていって、ドラムのやつはゴミ箱をスティックで叩いてました。
気づいたら、そいつらが高校の軽音部に所属して文化祭でやるためのコピーバンドへとなると言うので、えーだったらもう抜けるわと。
この頃、西新宿のレコード屋にいるときにNHKの番組でインタビューされた映像が、YouTubeにあがってます。恥ずかしいので、番組名は内緒です…
その後も、色々な人とスタジオに入ったりしましたが、メタルやハードロック方面のやつが多かったので、ライブ1回だけ参加して終わりとかでした。
ちゃんとしたバンドという意味ではBUTTERDOGが最初です。
Q7. Waterslide recordsのことを教えて下さい(始めた理由、レーベルの想い、思い出やエピソード、苦労したことなど)
A. 始めた理由はもう単純です。自分がやっていたバンドBUTTERDOGをリリースするためだけです。
個人的に聴いていた海外のバンドの多くが、初期音源は自分達でリリースしていたし、日本ではSnuffy Smileが登場して、知り合いのバンドの多くがそこからリリースし、徐々に個人(バンド)レベルでレーベルを立ち上げることが国内でも珍しくなくなっていた時代でした。Skippyも始めてましたしね。
いざ、レコード作ろうって言っても、レコーディングをどうしてもいいかもわからなかったので、ほぼほぼ周りの人に聞いてやった感じです。レコーディングスタジオすら仲の良かったというかお兄ちゃん的に勝手に慕ってたSPROCKET WHEELのレコーディングを見学させてもらって、そのままそのスタジオで録りました。
プレスに関する事柄や流通もジャンルは違いますが、すでにレーベルを始めていた知り合いに教えてもらってという形でした。
もうみなさんには本当にお世話になりました!
当初は飛び込み営業的に国内外のレコード屋さんに連絡をして扱ってもらったりしましたね。
幸いにも1stシングルがMaximum Rocknrollでレビューしてもらえたことで海外でも扱ってもらえましたね。
Maximumの影響力すげーって思いました。
そこから数年は自分が在籍していたバンドだけをリリースする為にレーベルの名前があっただけです。
そんな感じで何をするわけではない状態が続いていたんですが、イギリスのBoss Tuneageの国内流通を手伝うことになり、その流れでイギリスのSERPICO(ex-MEGA CITY FOUR)とTHE JONES(ex-LEATHERFACE)の音源を共同でリリースしない?というスーパーラッキーな話をもらったんです。
で、そこから、そうだ自分が好きなバンドを手助けするような形でやればいいんだと思い今のような感じになりました。
特に、その思いはPEACE OF BREADに出会ったあとが大きいです。そこからmalegoatにも繋がりますし、2000年代以降から現在のリリース作品に繋がっていっています。
今でもそうなんですが、このバンドとの出会いで、基本的なレーベルの活動目標はセールスに拘らず、無名であっても、自分が気に入って関わりたいと思うバンドの音源リリースや、地道に頑張っているバンドのサポートを変わることなく続けていきたいと思うようになりました。ここは今でもブレていないと思います。
苦労は、いつでもなんですが、お金が出て行くばかりです(笑)
よくレーベルを続けている人のインタビューなど読むと、何年かに一度でかい波が来るというようなことを話していますが、俺にはその波はありません(笑)
でも、リリースしている音源を聴いてくれた人に、良かったよと言ってもらえることがあるだけで続けられているのかもしれません。きっと、それで自分のペースを保っていられるのかなと今思いました。
あと、うちの奥さんが一切俺のやってることに干渉もしないので見守ってるのか、俺が楽しそうだから良いと放置しているのかわかりませんが、そのおかげです。自分が楽しいからやっていますね。
バンドをやっていなくても、リリースするバンドのみんなとああだこうだ話したりもできますしね。
【Waterslide records 立ち上げ時】
Q8. 90年代当時のシーンのことなどどんな風に感じていましたか?(国内のシーンについて、アメリカと国内両方で活動をして感じた違いなど)
A. 90年代はもう二度と戻ってきませんが、あれはもうミラクルとしか言いようがなかったでしょう。
おそらく、あの当時、ライブハウスやレコード屋さんに足を運んでいた人は、どんどん変化して行くシーンを体験していたのではないでしょうか。
自分たちで作っているんだみたいな幻想を。とにかく、なんでも新鮮だったように感じていました。
それは海外でも同じだったように思います。近しいバンドがやる会場どんどんでかくなっていくみたいな。
あと面白かったのが、日本のバンドがそれまでは憧れだった海外のシーンに普通に飛び込んでいける時代になっていきました。そのことで、日本のバンド全然負けてねーすげーぞってワクワクしました。
そういうことを20代前半に体感してしまったことが、自分と同世代の人たちが今も現役でバンド活動などを続けているのではないかなと思います。
ちなみに、俺が初めて見たGREEN DAYのライブはアルバム「Dookie」がブレイクした直後で、会場はでかい体育館で隣の席は中学生くらいの子供たちばっかりでした。前座がRIVERDALESでみんなぽっかーんとしてました(笑)
Q9. バンド活動、レーベル活動を通して90年代~現在までバンドやシーンを間近で見続けていて時代の流れ、変化など感じていることを教えて下さい。
A. そもそも論ですが、絶対数が90年代と今では違います。あの頃が特別だったのだと思います。
下地くんもインタビューで触れていましたが、バンド数もとにかく異常なほど全国的に多かったですからね。
日本中が盛り上がっていましたもんね。都内ではみんな同じ日の同じ時間の渋谷と下北のライブハウスを目当てのバンドを見るために行ったり来たりしてました。
最近ではフィジカルが売れないと言われる時代ですが、ブームとかで手に入れていた人や、メジャー盤だとカラオケのために手に入れてた人(うちの姉はそうでした)も多かったと思うので、それは売れなくなって当然だと思います。
本当に好きな人は当時から買い続けていますし、今も家庭の事情で量は減ったにしてもフィジカルを手に入れていると思います。
うちの15歳の娘は、好きなものはフィジカルで持っていないと、サブスクだけじゃ不安になると手に入れてます(笑)
でも今後はどうなっていくのか未知ですね。90年代も面白かったですけど、途中から飽和状態で細分化されてきてつまらなくなっていったと思いますし。
今は今で面白いですよ。だから、変化は当然ですし、良いバンド、良いレコードには今だに出会えるわけなので、その変化も面白いのかなと思っています。
Q10. バンドを始めた頃、夢や目標はありましたか?またレーベルを始めた頃の夢や目標はありましたか?また現在の夢や目標はありますか?(バンド、レーベル音楽活動、またプライベートでも)
A. BUTTERDOGを始めたときは、海外でライブをしたいし、海外のレーベルからリリースをしたいと思っていました。実際に、自分で動いてみれば海外でライブもツアーもやれました。海外のレーベルと契約も一度したので(リリース前にレーベルが閉鎖してしまったので実際にはリリースされていませんが、そのリリースのためのツアーもしたので自分の中ではリリース済み!)叶えました!
とにかく、自分が聴いて憧れていたバンドたちと同じレベルに立ちたいというのがBUTTERDOG時代の俺の目標でしたので。
レーベルを始めた頃は夢見ることはないくらいにリリースにたどり着くことに必死でした(笑)
今後のレーベルの目標は、サブスク全盛の時代の中でもまだまだみんなが知らずに埋もれている良いバンドを発掘して1人でも多くの人にこのバンドいいなと思ってもらえるものをリリースしていきたいです。それに続けていれば、家庭の事情などでライブハウスから離れてしまった友達が、俺がまだいるってことで戻って来やすくなったらいいなーと思ってます。
でも、長く続けてますが長く続けることは全く目標ではないです。たまたま続けられちゃってるだけです。プライベートな目標ももちろんありますが、それは笑われるので秘密です!
【V.M.L. RECORDS 契約決定】
Q11. 人生においての重要な5曲(またはバンド、音源単位でも)を教えて下さい。その曲についての思い出やエピソードも教えて下さい。
A. これは超むずい質問ですね。その時によって異なりますが。今思う自分の基礎となったバンドを挙げてみます。
(順不同)
DESCENDENTS/ALL - 再結成以前のDESCENDENTSの初期パンクロックも、中期以降の青臭さも、後期のテクニカルなプログレ的マスロックも、ALL時代のハードロックなアレンジも自分の音楽の幅を広げてくれたバンド。
LEATHERFACE/SNUFF - この2バンドは自分のUKメロディックハードコアの基本です。この2バンドに出会わなければ高校も卒業してはなかったかもしれませんし、高校で友達が増えることもなかったかもしれません。それに、メロディックパンクに夢中になることもなかったかもしれません。
SCREECHING WEASEL - ポップパンクバンドと思われがちですが、初期はスラッシュもありではちゃめちゃな感じで、このバンドに出会わなければ今のようにポップパンクを聴くこともなかったような気がします。そして、ここからB級ポップパンクレコードに夢中になりました。
SPROCKET WHEEL - 下地くんも挙げてましたが、このバンドと出会ってなければ、最初のレコード出せてないと思うし、バンドを重く考えないで楽しめばいいんだってことを教わった気がします。彼らにデモテープを渡したのがきっかけでBUTTERDOGもライブできるようになりましたしね。自分の中ではすげー世話になったって思ってたので、去年2023年に彼らがリリースしたシングルを裏でバックアップできて借りを返したからもうイーブンなと思ってます(笑)
STUPIDS - 高1のときに今は亡き高田馬場のレコ屋でジャケ買いして、吹っ飛んだ記憶があります。それまでのイギリスのハードコアバンドのイメージはシリアスな政治的なメッセージを発信するというものが多くそこに当初は惹かれていたんですが、STUPIDSのふざけた良いバランス感覚には一発でやられました。ここからアメリカのハードコアにも足を踏み入れるきっかけにもなりました。しかし、自分が後に彼らのツアーを組むとは想像もしてなかったです。
Q12. これまでに観たライブで特に印象深いライブを3つ挙げて下さい。思い出やエピソードも教えて下さい。
A. ここでは記憶に鮮明に残ってるライブを挙げてみます。
LEATHERFACE(1992年7月31日恵比寿GUILTY)
初来日のこの日ここで全てをもってかれました。何か新しいことが確実に始まってるんだということを感じました。実際にその後そうなっていきました。自分の今の人生に大きな影響をガッツーンと与えてくれた夜だったと思います。
ALL(1994年2月12日恵比寿GUILTY)
この日は東京に雪が積もりました。短パン履いて行って寒かったのを覚えています。オープンして中に入ったら普通にフロアでALLのメンバーがくつろいでいて驚きました。勇気を出してBillに声をかけたら、今ならコンプラに引っかかる内容の返しがさらっと来て、うわっこの人たちもめっちゃ普通の人たちだとうれしくなりました。ちなみに、LEATHERFACEもそうだったけど、ライブに来てるお客さんと気軽にコミュニケーションを取っていて、自分たちと同じ感覚でバンドやってるんだなってそういうライトな立ち振る舞いも新鮮でした。それまで見ていた他の来日アーティストとかだと、楽屋から出てこないから気軽に話しかけられませんでしたからね。
LIFETIME(1997年11月21日フィラデルフィアトロカデロ)
GREEN DAYがメジャー進出前夜のライブをアメリカで見たグングンから、向こうじゃ今やダイブなんてもんじゃなく、人の上を人が走るくらい盛り上がるんだよと聞いた時に、盛りすぎっしょと思ってましたが。自分の眼の前でも現実に起き、笑いが止まりませんでした。ちなみに、日本だと喧嘩が起こりそうですが、全くそんなことはありませんでした。彼らはまじでタフですよ。2005年に再結成する前の、解散の1つ前のライブの出来事でした。
【ALL & LEATHERFACE Ticket】
Q13. レーベルで手掛けてきたことで印象深いこと(リリース、ツアーなど)を3つ教えて下さい。思い出やエピソードも教えて下さい。
1. PEACE OF BREADとの出会い。ようやくこのバンドについて話せるような感じに自分の中で消化できるようになってきましたが、このバンドに出会ったことが今のようにレーベルが動き出すきっかけになりました。ギターボーカルの土屋には多くの新しいバンドを紹介してもらいましたし、たくさんのことを相談してもらってという付き合いをしてました。ほんとどうしようもないやつだったけど、すげー良い曲を書いていたし、ほんとに大好きなやつだったからまだまだ一緒に笑って遊びたかったですね。ちなみに、あいつは一緒に飯を食ってる時、自分は肉だけ食べて、野菜は全部俺の皿に入れてくるんですよ!
2. 2008年SKIMMER JAPAN TOUR。初めて手がけた海外バンドのツアーです。ほんと手探りで各地の友達に協力してもらって遣り遂げることができました。このツアーは今振り返ってもよくこんな回ったなと思えるほど今よりも日数も多く8箇所回りました。面白かったけど終わった後は放心状態でしたね。今もツアー後は同じですが。このツアーは今Waterslideを一緒に回してくれているレニーが一緒に回ってくれました。彼とはそこからの付き合いです。彼はBreak The Connection Recordsというレーベルをやってます。
3. SONIC SURF CITYも外せないですね。彼らからコンタクトがあり、初期の作品のリイシューをさせていただいて、日本ツアーを3回もやらせてもらって、解散前の最後のツアーにも日本を選んでもらえたことですね。彼らならもっと他に良い条件を出す人いるだろって思うんですが、完全DIYスタイルでやり切らせてもらいました。でも、それも彼らは楽しんでいたのがすげーなと思いました。俺よりも大人なのにって(笑)でもめちゃくちゃ俺に甘えるんでしょっちゅう文句言ってましたけど(爆)彼らのツアー会場に来てくれた方の笑顔がとても印象的で、逆に俺の方が力をもらえました。みんなが楽しんでいる空間のバイブってやばいです。それが大変だけどやって良かったと報われるところですね。
【PEACE OF BREAD / Tsuchiya】
【SONIC SURF CITY】
【SKIMMER JAPAN TOUR 2008】
Q14. これまでやってきた自身のライブで印象深いライブをいくつか教えて下さい。思い出やエピソードも教えて下さい。
A. 高橋組のラストライブという名目で自分たちの企画でやったときです。
たくさんのバンドに出てもらったので時間調整とかも考えて最期の順番にしたんですが、自分たちの出番の前のバンドのメンバーが酔っ払い過ぎてマイクスタンドを振り回したところ、ボーカルのシバタの頭に直撃したんですよ。
それで流血してしまって病院に行ってしまって、ライブをしなかったという。衝撃的すぎましたね。
で、お客さんも本当に入ってくれたので、打ち上げ費これ全部上がりでいけるっしょと思ってたらモニター2台壊れたりマイクスタンドの弁償で結局赤字だったという(笑)衝撃的なラストじゃないですか?!
【TAKAHASHI GUMI】
Q15. 最後に読んでくれた皆さんにメッセージをよろしくお願いします。告知もありましたら!
A. インタビュー慣れしてないので長くてごめんなさい!読んでくれてありがとうございます。
2024年4月にDIRT BIKE ANNIEというアメリカのバンドの日本ツアーを行います。90年代後半から活動していたポップ/メロディックパンクバンドです。興味がありましたら、是非会場に遊びに来てください。
そして、90年代から共に続けている山口さん、この機会を与えてくれてありがとうございます!まだまだ、お互い楽しんでいきましょう!福井で一緒に夜中にキッチンカーのラーメンを食べたことは一生の思い出ですからね。
みんな好きなことをやればいいんだ。
人生は一度きりだ!
【BUTTERDOG JAPAN TOUR 1997 / FUKUI 】
Waterslide records HP : https://watersliderecords.com/