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バンドとして絶頂だった1997年、自らが中心となって起こしたシーンの盛り上がりを尻目にSPROCKET WHEELは解散した。1992年の結成から5年間の活動が多くのバンドやシーンに与えた影響は計り知れない。純粋に音楽を楽しみただ音楽で繋がる仲間を増やそうとしていた当時の活動は新しいシーンが始るうねりを生み出した。常に自然体で自らのインスピレーションの指す方へ進むことを止めはしない彼らは解散から17年後の2014年に活動を再開した。リスタートを切ったスプロケは当時とはまた違う立ち位置で自分たちがやりたいことをやってこれからもみんなを楽しませてくれるに違いない。「1本のデモテープがきっかけでこうしてずっと繋がっていれるなんて音楽ってすごいよね」30年ほど前に新宿のレコード屋に置いてあったSTUPID PLOTSのデモテープを見つけて電話を掛けて来てくれた丸田さんはちょっと感慨深げにそう言った。僕らが音楽を続けている意味の全てがこのロマンのある言葉のなかに詰まっている気がした。音楽を通して手に入れることが出来る掛け替えのない本当に大切なものは案外見え難くてそれに気が付くには時間とタイミングが必要なのかもしれない。今回は今年2022年に結成30周年を迎えるバンドマンに愛されるバンドSPROCKET WHEELの丸田さんに当時のことなどいろいろなことを話してもらった。

( TEXT : Shogo Yamaguchi (ROADSIDE RECORDS . STUPID PLOTS )  2022 )

Q : Shogo Yamaguchi ( ROADSIDE RECORDS / STUPID PLOTS )

A : Kenichiro Maruta ( SPROCKET WHEEL)

(Interview date: November 2021 & February  2022 )

 

Q1. 自己紹介をよろしくお願いします。

A. SPROCKET WHEEL(スプロケ)のギターとヴォーカルの丸田健一郎です。

 

Q2. コロナの状況も長引いてきました。この間バンド活動やプライベートどのように過ごしてきましたか?

A. 2019年のスケートパークでのライブを最後にリキ(スプロケ/ギター)が都外に移住したじゃない。その後すぐにコロナの状況がひどくなってきちゃって。それで行き来出来なくなっちゃったから3人だけは毎月とかでもないんだけどたまにあって練習だけはしておこうってことになってんだけど、それでも3人揃ってってなるとなんだかんだ予定合わなくてさ。この間半年ぶりぐらいにスタジオ入ったよ(笑)

あと前に決まってたライブが2本あったんだけどコロナの影響でなくなっちゃったんだよね。

個人的には海外旅行が趣味なんだけどそれもコロナの影響でずっと行けてなかったんだよね。でもようやく今年(2022年)の1月メキシコに行くことが出来たね。向こうの人はマスクもきちんとしてるし日本よりも店に入る時なんかの検温とか消毒とかはすごい徹底しててさ、そうやって経済活動は通常に戻ってる感じだったよ。

 

Q3. 今年はスプロケ結成30周年だそうですね!おめでとうございます!バンド結成や初音源などバンドをスタートをしたころのことを聞かせて下さい。

A. 専門学校でたまたま末廣(スプロケ/ドラム)と同じクラスになってさ、しゃべってすぐ意気投合してその場でバンドやろうぜってなってバンド組んだのよ。最初は同じ学校の2人を誘って文化祭用にPSYCHOTIC YOUTHみたいなガレージパンクバンドやったんだよね。その後下山(スプロケ/ベース&ヴォーカル)を誘って組んだのがスプロケの始まりだね。だから結成は1992年だね。

下山はね、俺の高校の同級生だったナト(MIDDLE, CRADLE TO GRAVE)が中学の同級生だったの。で、ナトを通して高校の時に知り合ったんだよね。下山は別の高校だったんだけどめっちゃおしゃれで音楽のこともスゲー詳しくて、すでにカッコいいバンドもやっててさ、いつかこいつとバンドやれたらいいなぁってずっと思ってて俺にとってアイドル的存在だったわけ。その下山が入ってくれてこれでやっと自分のやりたかったことやれるって感じだったね。

初めての音源は同じ専門学校の友達で浦和のHCのファンジンを作ってるやつがいて、カセットテープ付きのファンジンを作るからって誘われて参加したんだよ。それに参加するにあたって参加バンドが集まって12月ごろ(1992年)にミーティングみたいなことをやって、レコ―ディングは1993年の1月だったね。

そのミーティングの時はまだバンド名決まってなかったの(笑)その後、末廣と授業中に英和辞典めくって「SPROCKET WHEEL」っていうのを見つけてこれいいねってなって決めたの。SCREECHING WEASELっぽい感じもあったりしてさ。スプロケのロゴのあのマークはその辞書に載っていたSPROCKET WHEELの説明用の挿絵をもとにして後に下山の提案でホイールの中心部分を「核マーク」にしてデザインしたんだよね。

そのファンジン参加バンドの中でメロディック・ポップパンクはうちらだけで、まだメロディックバンドとかそんないない時代だったから他からジュンスカみたいだなとか言われてバカにされたりしたんだけど別にどうでもいいやって思ってたね(笑)そこに入れたのはYou Make Me Happy って曲と、これは世に出てないんだけどNo Mind Controlって曲。ド初期でまだリキがいなくてライブも一度もやってなかった頃だね。

その最初のレコーディングはとりあえず以前下山がナトとやってた「ボヤッキーズ」ってバンドのギターのやつ(関根氏)が手伝ってくれたんだけど彼はその時だけだったから、そのあと3人になってずっとギターを探してたの。

それから下山が当時LONDON NIGHTでDJをやっててギターも弾けて音楽の好みも俺たちと合うリキを人づてに紹介してもらって誘ったら全然やるよ!ってなって1993年の2月か3月頃メンバー4人が揃ったんだよね。

まだ肌寒い春先に下山と二人でミロスまでリキに会いに行ったの思い出すね。

【SPROCKET WHEEL : LOGO MARK 】

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Q4. スプロケ初ライブや最初の頃のライブやリリースについて教えて下さい?

A. 当時(1993年)、今は南台のファミリーマートになってる場所に中野青年館とかっていう公民館見たいなとこがあって練習がタダでできたの。でそこでライブやっていいってことになって1993年5月のゴールデンウィークに当時の彼女とか友達とか5,6人の前でやったのが初ライブだったね。

2回目のライブは1993年の10月に女子美術大学の学園祭(女子美祭)に出て、その次は11月に専門学校の学園祭で後にGIG-ANTICになるSOUNDFORUMってとこでやってそれが大好評だったんだよね。

次はその年の12月で、またSOUNDFORUMでやったんだけどその時はヒカル君(DJヒカル氏)のバンドとやったの。そこでこんなバンドいるのかって知ってもらえるようになってその後のMOSH BOYZとかに繋がったんだよね。

で、1994年の初め頃にMOSH BOYZに呼んでもらってヒカル君のバンドRIP VAN WINKLEと横浜のCLUB24でやった時に、LODON NIGHTのDJのリッキーのバンドってことで注目されたのもあって、初めての大人数の前でのライブだったんだけど「なんだこのバンドは!」ってなったらしくて結構知ってもらえるようになったんだよね。

その時にその辺のやつらいっぱい知り合って、うちらの周りの友達とか含めてメロディックパンクとかだけでやってみて実際どのくらい人が集まるかバンドをいっぱい集めて初めて新宿ANTIKNOCKで企画をやってみたのよ。

その時出たのが SPROCKET WHEEL, HUSKING BEE, SHERBET,  ターボズゴック, SMELLING CUNTS, COMBINE FREAT....とかその辺みんなでやったの。結局90人ちょっと入ったんだよね。それが ’94年夏頃だったね。

で、これがスプロケの企画「LIVE CLEAN STAY YOUNG」の始まりになるの。このときはまだ名前つけてなかったんだけど、これがここから続いていくLIVE CLEAN ...の1回目って位置づけになってるんだよね。

そこからそのままライブ続けてってだんだんあちこち呼ばれるようになっていったんだよね。

その頃栄森さん(snuffy smile)が若いバンドを探してて当時リキが栄森さんとかの知り合いで俺たちをV.A. Not-Superstitious #1 に誘ってくれたの。もうそんなの即答じゃん。その時ってまだSLIME FISHERが出てるだけだったのよ。もうその時はめっちゃ嬉しかったね。

で、1994年秋頃にNot-Superstitiousのレコ発をANTIKNOCKでゲストに SLIME FISHER, GOD'S GUTSを呼んでやったんだよね。

【女子美祭 1993 】

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【at SOUNDFORUM  December 1993 】

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【at SOUNDFORUM  November 1993 】

【Not-Superstitious  /  Promotion Photo】

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Q5. スプロケの企画LIVE CLEAN STAY YOUNGはどういう想いで始めましたか、またその頃のことを教えて下さい。

A. 今は自主企画って普通だけどさ、当時はライブをやるにはブッキングライブしかなかったから自分たちで企画をするっていう概念がなかったの。だから自分たちの好きなバンドを集めて企画をするってこと自体が新しいことだったんだよね。

周辺では誰もやってなかったからあのANTIKNOCKの1回目の企画がそういうスタイルの始まりって感じだったよね。

そんな中そうやって自分たちが一緒にやりたい好きなバンドをどんどん集めて自分たちがやりたい形を作ってやり始めたのがLIVE CLEAN STAY YOUNGなんだよね。そこから(シーンの)流れが変わっていった感じだったよね。

LIVE CLEAN...は場所はずっと屋根裏(下北沢)だったね。LIVE CLEAN...といえば屋根裏って感じで。

あとはやっぱり仲間を求めてたんだよね。別に大きいことやろうとかそんな大それたこと考えてた訳じゃなくてさ。

ひとつでも多くのバンドを見つけたかったというか俺たち仲間がほしかっただけなんだよね。それが本音かな。

その頃同じようなことやってる同世代のバンド仲間が全然いなかったからあちこちライブ観に行って声かけたりとか、あとVINYL (JAPAN)にいって飯島さん(現 BASE )とか南さん(現 BASE )にこれどんなバンド?ってきいてよさそうだったらDEMOを買ってよかったら電話かけまくってたね。それこそSTUPID PLOTSもそこが最初だし、COOLER KING McQUEENもそうだしLIFE BALLもFRUITYもみんなそう。

そうやってどんどんやってるうちに気付いたら同じようなバンドがたくさん周りに出来始めていったって感じかな。

ハイスタ(HI-STANDARD)は世代的には一個上だけどその下の世代でうちらがスナッフィーに呼ばれたってのがあってスプロケ、ハスキン、シャーベットがバーっとでて、Not-Superstitiousで一緒だったBLEWとかMIDISHADEとかLOVE MENとか同世代として加わってだんだんシーンが大きくなっていったのよ。LIVE CLEAN STAY YOUNGを通してもどんどんいろんなバンドの輪が広がっていってさ。

俺らはハードコアでもミクスチャーでもみんな一緒にやってきてたけどそうやってどんどんシーンが大きくなるにつれて人気もジャンルも分散されるようになっていったよね。メロディックはメロディックで、みたいに。そんな風にシーンが出来上がっていった感じかな。

【LIVE CLEAN STAY YOUNG Vol.10   1996 】

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Q6. 海外リリースもされていますね。それはどういった経緯でしたか?

A. アメリカのレーベルBROKEN REKIDSからのリリースはスナッフィーの栄森さんを通してJ-CHURCHのLanceがやってくれたような感じだったね。Lanceがスプロケを凄く気に入ってくれてね。俺らは音源とジャケット素材をBROKEN REKIDSに送ってあとはやってもらうみたいな感じだったから。

最初の海外リリースになるはずだったアメリカのRHETORICからの7”EPは元々向こうのレーベルの音源を下山がディストロしてた繋がりで向こうから声を掛けてくれて。MAXIMUM ROCK’N’ROLLにも広告載ってたんだけどレーベルがなくなってそのままになっちゃったんだよね。

海外に音源を一番最初に海外に送ったのはFAT WRECK CHORDSだったんだけどね。5段階評価の上から2番目のKeep in Touch的な割といい評価だったんだけど何もなくそのままで。結局FATからのリリースっていうのはそんなに興味はなくなっちゃったんだけど(笑)

【Singles / Released by BROKEN REKIDS 1998

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Q7. 当時海外バンドとのツアーもよくまわっていましたがその頃の状況など教えて下さい。

A. MR. T EXPERIENCEの来日は当時VINYLの飯島さんがフランク(Dr. Frank/MR. T EXPERIENCE ヴォーカル&ギター)が日本に来たいって言ってるんだけどスプロケ、ツアーサポートやんない?って声かけてくれて。もちろんやりたいって受けて、うちらだけではまぁ人もあれだしってことで当時すでに人気あったハスキン(HUSKING BEE)も一緒にってことになって一緒に回ったんだよね。そのツアーが成功してなんか形が出来た感じだったね。

そのあと吉田さん(GRACE, TAMI, MY WINTER JANE)がSICKOを呼ぶってことになってその時もツアーサポートを俺たちに声かけてくれてまたハスキンに声かけて一緒にまわって、その第2段がBRACKETだったのね。それもまたハスキンとまわって。そうやって3バンドで回るっていうのをよくやったね。

その頃は海外バンドをスナッフィーが呼ぶこともあったしいろんなレコード屋が呼ぶっていうのもよくあって単発でも海外バンドとのライブはいっぱいやったね。

その中でやったSTINKと仲良くなって、今度呼ぶよって話になってその時STINKのメンバーのひとりがEVERREADYのメンバーでもあったから2バンドを呼んだのが自分たちで直接呼んだツアーだね。ただその時スプロケの解散が決まっちゃって、ウォーター(WATERCLOSET)がツアーサポート引き継いでやってくれたんだよね。

【MR. T EXPERIENCE Japan Tour 1996 】

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【BRACKET Japan Tour 1997 】

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Q8. スプロケの曲・サウンドは唯一無二のものだと思います。どういったところから影響を受けていますか。

A. 高校のころ下山と知り合ってそのころにNOFXとかOPERATION IVY, JAWBREAKERそしてSNUFFこの辺がリアルタイムで入ってきてなんじゃこりゃ!ってなったわけ。90,91年ごろなんだけど。

それまではブルーハーツとかビートパンク全盛の頃でコピーバンドとかやっててバンドを英語でやるって概念がなかったんだけどもう覆っちゃって。英語でこんなのが出来るんだって。もう俺はこれになりたいって思ったもんね(笑)当時英語がしゃべれなかったから勉強しとけばよかったって思ったよ(笑)

その時からもう俺の中で日本語でバンドをやるっていうのはなくなっちゃったわけ。そのぐらい衝撃を受けたね。専門学校のころもみんなで買いもしねーのに毎日のように西新宿のレコード屋街行ってさ、たまに新しいのが出てたら買うって感じだった。

いろいろ聴いて一段落して自分の中に入ってきたのがCRIMPSHRINE, FIFTEEN, PINHEAD GUNPOWDERなんかのイーストベイ系のバンドだったんだよね。

それはスプロケのサウンドによく反映されてると思うんだよ。初期の方はNOFXとかOPERATION IVYっぽくてだんだんイーストベイみたいな感じになっていくっていう。

【1996 】

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【1996 】

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Q9. 曲作りやレコーディングで意識していることやエピソードなど教えて下さい。

A. 曲作りは基本的に俺と下山がそれぞれ個々で作ってきてスタジオで合わせてって感じだったね。俺が作った曲に下山が歌詞を付けるってパターンもあったけど。

ただ唯一、1曲だけ完全に2人で一緒に作った曲があるんだよね。それが「LIVE CLEAN STAY YOUNG」なんだよ。あれは初めて2人で歌詞も考えてさ。俺たちの初期衝動みたいなものをずっと忘れないでいようっていう気持ちを書いたのがあの曲。「あの初めてステージに立った時の感動を忘れないでいられるか?」って。そんな気持ちを込めて下山の家で2人で一緒に作ったの覚えてるよ。で、リキがあのイントロとかギターのメロディーを考えたの。

音作りのこだわりは当時なくて俺らたまたまあーなっただけで(笑)ホント金がなくてさ。それで結果ショボい感じになったけどもっとカチッとやりたかったんだよホントは(笑)

AROUND MY FEET と JUST LIKE YOUは三鷹のスタジオでお店の人がエンジニアでレコーディングパックとかで録ったんだよね。

その前のNot-Superstitious参加のMore Funだけは今はもうないんだけど高円寺のAFTER BEATってスタジオでプロデュースをSAWPITとかBEYONDSの初代のギターの高杉大地さんがしてくれてきっと彼の中ではOPERATION IVYの音だったのよ。後から聴くと。その時うちら気付かなかったんだけどね。やっぱり上手なんだよね。

それ以降は全部GIG-ANTICの下で録ったね。あの頃ほとんどみんなあそこだったよ。

音に対してはリキは結構意見言ってたけど俺に関しては間違えてなければいいってレベルだったからさ(笑)スプロケはほぼ一発みたいなのが多かったからさ。楽器が間違えてさえいなければ良いって感じで、声が裏返ったりしててもやり直さないでそのままだったし。何か分かんないけどまったく気にしてなかったんだよ。時間もお金もなかったからただやり直したくなかっただけだったのかな(笑)

音について(の意識)はクレイドル(CRADLE TO GRAVE)になってからだいぶ変わったね。スプロケでできなかった音作りみたいなものをスゴイこだわるようになって。もっと厚みがほしかったから楽器(ギター)も変えたしね。クレイドルの俺がいた最後のアルバムで俺のやりたいことをすごい表現できて俺の中では完成されたんだけど、音楽的には。でもやっぱりこうすればよかったって後悔するところもあるよね。

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Q10. アメリカに住んでいたことがあるときいていますがどんな経緯で?またその頃の思い出やエピソードあったら教えて下さい。

A. 当時やってた店 JUSTICE LEAGUEの買い付けで3か月に一回ぐらいアメリカに行って10日間ぐらい滞在っていうのを何回も繰り返してたんだけど、スプロケを解散してから予算もかかるし俺もう向こうに住むわって言ってそのままずっとロスに滞在してたんだよね。要はバイヤーだよね。ていってもビザもとらなかったから3か月滞在して一旦戻ってまた行くって感じで一年弱ぐらい繰り返したのかな。それで英語も生活できるくらいにはならないといけなかったからちょっとずつしゃべれるようになって言ってることが分かるようにはなったって感じかな。

ロスにいるころ当時COOL GUY RECORDSってレーベルのダニーってやつと友達になってFIFTEENが1日だけ再結成するらしいから観に行こうってなってそいつら4人と車で6時間ドライブして観にったんだよね。その時初めてジェフ(Jeff Ott/FIFTEENギター&ヴォーカル)に会ってさ、着てたパーカーにサインもらって写真撮ってもらって帰ってきたんだよね。なんだけどその写真もパーカーもどっかいっちゃったんだよね(笑)その時は初期の曲とかはやんなくてその後リリースだったアルバムLuckyの曲をやってたね。かっけーなーって思ったね。

で、その後しばらくしてFIFTEENが本格的に再始動してツアー回ったんだよ西海岸で。俺が住んでたエリアでやった4か所は全部ついて回って観に行ったよ。その時は古い曲もバリバリやってさ。1人で二役のあの声でちゃんとやっててそりゃヤバかったよ。やっぱりむちゃくちゃ盛り上がってたしね。しゃべりが超長くてその時は客はみんな体育座りで説教を聞いてたね(笑) 

あとハリウッドのROXYにGOOD RIDDANCEのライブを見に行ったときに前座みたいなので出てたBACKSIDEがカッコ良かったからCD買ってコンタクトとってさ。最終的にそこのヘルプのギターだったマックってやつと一番仲良くなったんだよね。

その後、マックはヘルプだったからBACKSIDEはもうやってなくて、マックのバンドco-edを日本に呼んでクレイドルとウォーターと3バンドでツアー回ったんだよね。

ホントはその時FIFTEENも一緒に来るってことで話進めてたんだよね。当時メールなんてなかったからマックとFAXで毎日のように連絡とってさ。残念ながら都合が合わなくなっちゃってFIFTEENは来れなくなっちゃったの。アメリカで観てホントカッコよかったら日本のみんなにも見せたかったし、 Jeffも日本に行きたいって言ってくれてたから実現したかったんだけどね。

それは2000年代に入っての話なんだけど。俺もう日本に帰って来てて1998年末ぐらいにはクレイドル結成してたからね。


*co-ed / YOUTUBE : https://www.youtube.com/watch?v=Qf-KvmRheZc
*BACKSIDE / YOUTUBE : https://www.youtube.com/watch?v=yORD0JQjdhc

【アメリカ滞在時】

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【FIFTEEN  再始動ツアー 】

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Q11. バンドを始めた頃夢や目標はありましたか?また現在はどうですか?

A. これまじめな話なんだけど、高校の進路を決める話の時親に本当に真顔で俺は音楽で世界を変えたいから就職も進学もしないって言ったの。売れたいとかそんなんじゃなくて自分が音楽で何かを変えられるなら変えてみたいって本気で思ってたんだよね。で、本当に就職も進学もしなかったのよ。

でも結局1年間ろくにちゃんとしたバンドも組めずに何にも出来ないままで、やっぱりこれじゃだめだなって思ってアメリカに1人で旅に行くか専門学校に行こうかって思って結局専門学校を選んでスプロケを組むことになったんだよね。結局はまだ何も変えれてないんだけどね。

ただ外国のバンドとライブがしたいとか、音源をリリースしたいとかっていう夢は叶ったね。

やり残したことと言えばアメリカのギルマン(924 Gilman Street)でライブをやるっていう夢は叶ってないから死ぬまでに達成したいよね自分の目標として。やってきたからにはさ。

実は一度ギルマンに行ったことあんのよ。FIFTEENを見に行った時ダニーにギルマンに行ってみたいって言ったら連れてってくれてさ。昼間だからライブとかやってなくてションベンだけして帰ってきた。めっちゃ汚かったけどあぁこれがギルマンストリートかって思ったね。

​*924 GILMAN STREET : https://www.924gilman.org/

【1996 】

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スプロケが一番いい時に俺が抜けるってことで解散になってぶち壊しちゃった感あったから申し訳なかったなって思ってるんだけど、今本当に楽しくてさ。スプロケ全盛のころは練習が嫌で嫌でしょうがなかったんだけど、今は練習もホント楽しくてさ。彼らに会って一緒に話したり音楽できることがことが本当に楽しいからそれはホント良かったと思ってるんだよね。いろいろあったけどその結果今があるとしたらね。

メンバーの誰かが死ぬまでスプロケをやめる気はないんだよ。いろんな人に影響を及ぼすことが出来たか分からないけどまだまだやり残したことはあるしまだまだ志し半ばだしね。

あと個人的な野望っていうか夢があるの。俺旅行が好きでさ。60歳までに60か国行きたいんだよ。今年行ったメキシコが31か国目でまだまだ(達成は)遠いしきっと無理なんだろうけど関係ないよね。やってみないと始らないじゃん。

俺ね結構先に言っちゃうパターンなのよいつも(笑)言っちゃったからしょうがないし後で自分をそこまでもっていくっていうね(笑)そんなとこもあるけどなるべく実行したいよね。人生一回しかないんだし諦めるってもったいないもんね。

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Q12. 人生においての重要な曲(またはバンド、音源単位でも)を教えて下さい。その曲についての思い出やエピソードも教えて下さい。

A. 小さなころ母親がビートルズが好きでよく聴いてたよ。叔父さんもすごいビートルズが好きだったからおばあちゃん家に行くと叔父さんのレコードがたくさんあってよく聴いたり借りたりしたね。こんなのがあるんだ、って感じで。

あと中学の頃父親の仕事の手伝いで一緒にトラックに乗っていた時にラジオから流れてきた曲聴いてなんだこれ!って思ったことがあって。その時は何の曲なのか分かんなかったんだけど何年後かにあの曲ってこれだったんだって分かったの。それがRAMONESの「DO YOU REMEMBER R&R RADIO」だったんだよね。まだ全然バンドとかやる前でさ。だいぶ前に知らないうちにRAMONESに衝撃を受けてたんだよね。

その時ってまだ俺の中でパンクってブルーハーツとかしかなかったんだよね。そう意味で言うとブルーハーツの「キスしてほしい」も衝撃だったね。CMで流れたのを初めて聴いた感じだったのよ。あの時もやっぱりなんだこれ!って思ってそれくらいからパンクを意識し始めたからね。

高校に入ってからビートパンクとかいっぱい出てきてそういうのも聴くようになってその流れでSEX PISTOLS とか THE CLASHとかも聴くようになったんだけどその時はあんまピンと来なかったのよ。それよりTOY DOLLSを聴いた時はグッときたんだよね。やっぱキャッチーなのがくるんだよね、俺はね。そのあたりの頃なんだよねあれってRAMONESだったんだ!って分かったの。

やっぱり本当に衝撃を受けたのはその後に聴いたNOFXの「MORON BROTHERS」, OPERATION IVYの「BIG CITY」とか。もうあの辺は忘れられないね。なんていったらいいか分かんないけどホント自分の人生感が変わって言ったら大げさかもしんないけど。同じ曲を繰り返し1日100回ぐらい聴いてたもんね。

あと、JAWBREAKERの「WANT」「BUSY」、SNUFFだと「What Kind Of Love」かな。

そしてやっぱりあらためて入ってきたのがCRIMPSHRINE, FIFTEEN だったんだよね。そんな感じかな。

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Q13. これまでに観たライブや自身のライブで特に印象深いライブを教えて下さい。思い出やエピソードも教えて下さい。

A. やっぱりNOFXの初来日の新宿ロフトでのライブがNO.1だね。

NO.2はPROPAGANDHIの2回目の来日のシェルターでやった時のライブ。栄森さんが呼んだ時のやつね。1回目の来日はでかいとこであれはあんまりだったじゃん。そのシェルターの時ってスプロケが一緒にやれたのよ。その時ってTILTが一緒に来る予定だったんだけど確かTILTがギリギリんとこで解散しちゃったのかな。それでTILTが来れなくなって代わりにJ-CHURCHが来たのよ。その時のPROPAGANDHIのライブがもう最高にカッコ良くてさ。あれは結構グッと来たよね。クリス(PROPAGANDHIギター&ヴォーカル)もスプロケのこと気に入ってくれてさ。超嬉しかったよ。

その時面白い話があってさ。うちらリハでシェルターに入ったらすでに彼ら到着しててPROPAGANDHIがシェルターの中にいてイスに座ってたのよ。ウォーって思ってさ。そしたらそこにロン毛でメガネのおじさんが一人いて付き人かなんかかなと思ったんだけどそれがJ-CHURCHのLanceだったの(笑)

で、えー!まじ!ってLanceとしゃべってさ。LanceはMAXIMUM ROCK'N'ROLLで俺らのこと超気に入ってくれてて結構いいこととか書いてくれてたからさ。ありがとねって俺らスプロケですって話してさ。そん時に初めてLanceと話したんだよね。そんなこともあってこれは思い出深いライブなんだよね。

【w / Lance (J-CHURCH), 栄森氏 1997】

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あとはSNUFFの2回目の来日の新宿ロフト。それも俺ら一緒にやったんだよね。それも衝撃だったね。その後またSNUFFが来日した時にその時は英語しゃべれなかったから”あなたたちがいたから俺たちバンドやれてるんだ”って何とか伝えたくて栄森さんに訳してもらってダンカン(SNUFF ドラム&ヴォーカル)に言ってもらったの覚えてるよね。

あとはさっき言ったアメリカで観たFIFTEENのライブも感動したね。

それとクアトロでやったNOFX。それもやっぱり俺たちが出てるから思い出になったってのはあるんだけど。

そん時はNOFXとハイスタとスプロケの3バンドだったの。うちらそんな大きな規模のライブ初めてだったからさめっちゃ緊張してさ。確かまだ音源もそんなに出てない時期だったと思うんだよね。Not-Superstitiousが出たぐらいの時かな。

ハイスタはもう人気あったんだけどうちらはまだ全然知られてない時だったのに出してもらえたからNOFXは当然うちらのことなんて見てないんだけどさ、もう客にビビっちゃって(笑)

でもそん時に初めてうちらを観たって子がいてその人とはいまだに連絡とってるよ。そん時はもちろんNOFXを見に来てたんだけど一番よかったって言ってくれてね。それからずっと交流があるんだよね。

打ち上げもNOFXと一緒にやれたから自分達の経験としてもすごい思い出に残ったライブだったよね。

LIVE CLEAN STAY YOUNGの歌詞の「あの初めてステージに立った時の感動を忘れないでいられるか?」の ”あのステージ” ってこのNOFXの時のことなんだよね。

あとはやっぱりMR. T EXPERIECE, SICKO, BRACKETとのツアーはすごい楽しかったね。初めて海外のバンドとツアーまわったから凄い思い出だよね。

あとLIFE BALLとのツアーとその流れでその後まわったDISGUSTEENSとのツアーもいい思い出だね。

【at CLUB QUATRO / NOFX  Japan Tour 1995 】

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【Tour with LIFE BALL  1996 】

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【初 新宿LOFT  1994 】

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Q14. 最後に読んでくれた皆さんに一言メッセージをよろしくお願いします。告知もありましたら!

A. 読んでくれてありがとうございました。

年齢がいったからっていっても俺たち全然変わってなくて始めた時のまんま青春が終わってないんだよね。

だから中には変わっていったりいなくなっていく人もいるけど俺たちはぜんぜん卒業する必要ないし好きなままでいればいいのかなって思ってるんだよね。

俺はいまでもNOFX の「MORON BROTHERS」とかOPERATION IVYの「BIG CITY」が最高だって言えるしさ。

もし同じ感じでスプロケが最高だって言ってくれる人がいたら嬉しいし楽しみにしていてほしいよね。

とりあえずメンバーの誰かが死ぬまでスプロケは止めるつもりないんで。

【1997 】

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【LIVE CLEAN STAY YOUNG VOL..10  1996】

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【LIVE CLEAN STAY YOUNG VOL..20  2017】

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【1996年 SPROCKET WHEEL & STUPID PLOTS 初対面時】

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【w/ STUPID PLOTS /LIVE CLEAN STAY YOUNG VOL..10  1996】

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【w/ STUPID PLOTS / LIVE CLEAN STAY YOUNG VOL..20  2017】

【Rare Flyers】

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【2017年 LIVE CLEAN STAY YOUNG VOL..20】

【LIVE CLEAN STAY YOUNG 】

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